珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

やっと終わった線、もう嫌だ経由、おうち帰りたい行きの列車についての覚書|世紀末な陸の旅をお楽しみください

とはいえ母校の学校行事をめちゃくちゃにした新校長は未だに許してない

良き人生の終わり方とは、一言で言い表すならば「後悔と未練が無いこと」、これに尽きるだろう。ところでこの「後悔と未練が無いこと」にも2タイプあって、「やるべきこともやりたいことも全てやった、もう思い残すことはない」というタイプと、「やっとこのクソみてえな苦行の日々から解放されるぜ、Foo↑」というタイプに分けられる。現実で本当に後者のような逝き方が出来るかはさておき。人生ではスケールがデカすぎるなら、高校生活最後の運動会、もしくは文化祭を考えてみてほしい。高校最後の体育祭文化祭なんて、下手すれば人生最後の体育祭文化祭である。それら二大行事を「やりきった」と考えるか、「やっと終わった」と考えるか。私は間違いなく後者の人間なのだが、恐らく人生においても(仮に後悔と未練無く逝けるのであれば)後者の道をゆくのだろう。

 ※章題の件ですが、母校の文化祭は大学の学園祭かな?というくらい生徒保護者一丸となって出し物売り物花火にライブと、最早地域の祭りと言っても過言ではない程のやりたい放題が魅力だったのに、新しい校長の方針により「出店をはじめとする金銭のやり取り禁止、他校生の入場禁止、総合学習で調べたことや美術の授業作品を展示し午前はそれを見て回る、午後は体育館で全クラスの演劇や合唱を観賞」する文化祭になり果てました。

 

嫌なミルフィーユだ

思えば日々の暮らしのなかでも、「やりきった」に該当することは皆無に等しく、逆に「やっと終わった」を重ねて重ねてひたすら重ねたもので人生が織りあがっている。家事が「やっと終わった」、準備が「やっと終わった」、通勤時間が「やっと終わった」、仕事の前半戦が「やっと終わった」、仕事の後半戦が「やっと終わった」、買い物が「やっと終わった」、帰宅が「やっと終わった」、再び家事が「やっと終わった」、1日が「やっと終わった」、そして次の1日が「もう始まる」毎日の「やっと終わった」が宇宙まで到達したその時、私は「やっと終わった」と呟きながら溜め息を吐き出して死ぬのだ。シェフの気まぐれ人生、虚無ース仕立て、忍耐と失意を添えて。

 

分岐器ぶっ壊れてっから

「やっと終わった」から「やりきった」に乗り換えるには、人生あまりにも乗り換え駅が少なすぎる。「やっと終わった」線の列車に乗り込んだが最後、下ろしてくれと泣いて喚いて緊急停止ボタンを連打しようとも、そう簡単には停まってくれない。「やりきった」線への乗り換え駅は、人生にある無数の駅の中でほんのひと握りしかない。生きているうちにその駅に停車できるかどうかはまさに運ゲーである。「やっと終わった」線の列車の中の時間は、「やりきった」線の列車の中の時間よりも数倍遅く流れる。逆浦島太郎である。楽しい時間は一瞬で終わるが、辛い時間はいつまで経っても終わりが見えてこない。いや、流れる時間が遅いというよりも、そもそも列車自体がトロトロ走っているのでは?急いどんのよこっちは。今日のノルマはざっと30駅、まだ2駅しか通ってないじゃないのさ。早くあの駅に着いて、この駅に着いて、その駅に着いて、あれが終わって、これが終わって、それが終わって、あれもこれもそれもあれもこれもそれもあれもこれもそれも早く早く早く早く終わってくれなきゃ困るんだよ!じゃなきゃいつまで経っても今日が終わらないだろ!人生が終わらないだろ!いつ終゛わるんだよ俺゛の人生はよ゛お!

 

人生きさらぎ駅

 ……などということを考えながら私が普段生きているのか、それともいつものしがない思索に過ぎないのかは読者諸賢のご想像にお任せしよう。にしてもアレ、現実で列車を乗り間違えたところで数十分、どんなに長くても数時間程度のロスで済むわけだが、人生の列車を乗り間違えたら、数時間どころのロスじゃ済まないところがね、もうね。ガタンゴトーン。

 

 

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