重篤な対人ダブルスタンダードについての覚書|「人」について書くときの私は生き生きしているな
はい、私は阿呆です
結局、私は人間をどうしたいのか分からぬのだ。実現可能であるかはさておき、人間というものを完全に遮断して、猫さんや鳥さんやその他可愛い生き物と一緒にキャッキャウフフしながら生きていきたいのか、それとも……それとも何だろう。「それとも」の先が出てこない。深夜のネオン、歩く人影、店のガラスを透かして見れば、踊る阿呆に観る阿呆、歩く阿呆に走る阿呆、買う阿呆に売る阿呆、笑う阿呆に泣く阿呆、とにかく世の中阿呆だらけに見えて本当に嫌になるのだが、その一方でバイト先で働く者同士、所謂「身内」に対してはその阿呆フィルターが微塵も作用しないところが不思議なものだ。名も知らぬ赤の他人はあんなにも阿呆に見えるのに。「身内」に関して言えば、ただちょっと名前を知っていて、年齢を知っていて、性格を知っていて、でもそれ以上のことはほとんど何も知らなくて、本当にただそれだけの違いにも関わらず、「身内」のバイトくんバイトちゃんのことを阿呆だなどと思ったことは1度も無い。こいつアホやなと思ったことはあるけれど。勿論、読者諸賢を阿呆と思ったことも1度も無い。そもそも読者諸賢については名前はおろか素性のほとんどを知らないのだからね。だから、人類皆阿呆だなどと大それたことは口が裂けても言えない。けれども、いつか全てをぶちまけてしまいたいという願望が少なからずあるのだろう。赤の他人は勿論、リアル身内も、バイトくんバイトちゃんのことも、この際全てをまるめてぽいして、「人類皆阿呆だ!」と大声で叫びたい自分がいるのだろう。ええー、ほんとにござるかぁ?
学生時代に先輩らしい先輩や後輩らしい後輩を持った経験が無いから浮かれてるだけだと思う(名推理)
人の相手をするのが嫌だ、そもそも赤の他人の機嫌を赤の他人なんかが取るべきではない、接客業は本来人間がやるような仕事ではない、全部ペッパーくんにやらせろ、国家予算全てを接客ロボットの開発に注ぎ込め、全人類コミュニケーションをやめろ、などと事あるごとに脳内でほざいているわりには、「身内」に対してはアレコレ話したくなる。アレコレ聞いて欲しくなる。我ながら酷いダブルスタンダードだ。こちらから「聞いてくださいよ~」と言うのも好きだし、逆に向こうから「聞いてくださいよ~」と言われるのも好きだ。アレ、私は「聞いてくださいよ~」が好きなのか?タイピングしていてびっくりした。私は「聞いてくださいよ~」が好きらしい。人の目を見て話すのが苦手だし、面白い話の1つも出来ないし、気の利いた返事も出来ない身のくせして、「聞いてくださいよ~」が好きなのか。そうか。
ダブルスタンダードは人間精神の切り取り線なのでそこにハサミを入れると人は真っ二つになって死ぬ
まあ結局、考えなくても分かることなのだ。現実における赤の他人の相手はクソイライラするが、「身内」の相手はディ・モールト(非常に)良し。当然だ。誰だってそうだ。それが私の場合、日頃の「現実における赤の他人の相手はクソイライラする」という部分があまりにもデカすぎる故に、「『身内』の相手はディ・モールト(非常に)良し」という部分がハチャメチャに効くというか、尊くて、よさみが深すぎて、頭がパーンするのだ。語彙力もパーンした。飢餓状態の人が急に沢山食べるとヤバイみたいなアレなのかもしれない。しかしそんな中でも、「現実における赤の他人の相手はクソイライラする」と考える私が死んだわけではない。奴はまだ生きているのだ。てなわけで、「人類皆阿呆だ」と叫ぶ私と「そんなことないですよ、良い人もいますよ」と諭す私が同時に存在するから、頭が完全にバグってしまう。私は人の相手をしてイライラしたいのかもしれないし、人の相手をしてウキウキしたいのかもしれない。間違いなく両方だ。イライラもしたいし、ウキウキもしたい。自分の中の攻撃的な考えを正当化するためにイライラしたい一方で、自分の中の穏やかな考えを正当化するためにウキウキしたい。イライラとウキウキは両立出来ないのに、イライラしたい私とウキウキしたい私は共存している。ウーン(ここで左右にちぎれて死ぬ)
1本の記事をこんな短時間でグワーッと書き上げられたのは久しぶりだ やっぱり私は人が好きなのかもしれないね
「お前らなんて大嫌いだ」と叫びたい私を生かしてやることは出来ないが、殺してやることも出来ない。「お前らのこと好きだよ」と叫びたい私を殺してやることは出来ないが、生かしてやることも出来ない。人間の相手は難しい。来世は人間の相手をしなくてもいい何かになろう。