珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

計算が出来ない鍋と愉快な仲間たちについての覚書|成長したけりゃ鍋を出せ

今週のお題「鍋」について

鍋には二種類ある。自分の手によって成立する鍋、自分と他人の手によって成立する鍋、他人の手によって成立する鍋、計算が出来ない鍋だ。順番に見ていこう。自分しかいない空間において、自分が用意した鍋の中に、自分が選んだ食材を入れ、自分が選んだつゆで煮込み、自分の加減で食すのが「自分の手によって成立する鍋」である。次。自分と他人がいる空間において、自分もしくは他人が用意した鍋の中に、自分と他人が選んだ食材を入れ、自分と他人が選んだつゆで煮込み、自分と他人の加減で食すのが「自分と他人の手によって成立する鍋」である。次。自分と他人がいるが自分には決定権の無い空間において、他人が用意した鍋の中に、他人が選んだ食材を入れ、他人が選んだつゆで煮込み、他人の加減で食すのが「他人の手によって成立する鍋」である。次。1+1+1+1=2。「計算が出来ない鍋」である。以上。よって、鍋には二種類ある。

 

「自分の手によって成立する鍋」について

自分の嫌いな食材は一切入れなくていいし、自分の嫌いなつゆは使わなくていい。シャキシャキの白菜が好きなら早めに食えばいいし、しなしなの白菜が好きなら長めにおいてから食えばいい。「オイオイその白菜ほぼ生だろ、ニワトリかよ」なんて野次を飛ばしてくる外野はいない。ヒョオ!鍋を食べる時はね、誰にも邪魔されず、自由で、なんというか救われてなきゃあダメなんだ。独りで静かで豊かで……。一方、「自分の手によって成立する鍋」は自分の能力と責任の範囲を超えてファンタスティックな鍋になることはない。用意は自分の能力と責任の範囲で、調理も自分の能力と責任の範囲で、片付けも自分の能力と責任の範囲で。何らかのミラクルが起こらない限り、鍋の中で化学反応が起こることは無いだろう。自分には到底思いつかないようなアイデアが、自分の中から見つかることは無いのだから。自由という名の具材を、孤独という名のつゆで煮込むのである。自分の能力と責任の範囲で全てを賄う鍋が、「自分の手によって成立する鍋」。人生に似てますね。

 

ハンバーガーについて 「自分と他人の手によって成立する鍋」について

突然だが、あなたの好きなもの、食べ物でも本でも音楽でも何でもいい、それらのうちで、他人に教えてもらったものがいくつあるか考えてみてほしい。あなたにハンバーガーの美味しさを最初に教えてくれた人は一体誰だ?あなたがまだハンバーガーのハの字も知らないうちから、「ハンバーグとレタスとトマトをパンで挟んだ食べ物はきっと美味しいに違いない、そしてそういうものを200円くらいで売っている店が近所にあるに違いない」と、 ある日突然思いつく・・・・・・・・・ なんてことがあるだろうか?他人から教わることは多い。鍋もいっしょ。他人が持ってきて他人がぶちこんだ食材の中に、自分には思いつきもしないようなものがあったなら、それは「他人からの教わり」を意味する。これこそが他人の手が混じった鍋の醍醐味である。ハンバーガーのことを何も知らない状態で他人から教わる「ハンバーガー」なる食べ物の存在は大きい。これまでずっと昼飯にはおにぎりを持参していた人間が、他人に教わった「ハンバーガー」なる食べ物をいたく気に入って、それ以降ずっと昼飯に「ハンバーガー」を食べるようになるかもしれない。握り飯がハンバーガーになったところでそれがどうしたと言ってしまえばそれまでだが、もしかするとたまたま足を運んだマクドナルドで人生を変えるような出来事が起こるかもしれない。12歳くらいまで狼に育てられた人間がいたとして、彼ないし彼女が 完全な独力・・・・・ ハンバーガーという食べ物にありつくまでに一体どれほどの年月がかかるというのか。他人と上手くやっていける人間ほど、他人から上手いこと「ハンバーガー」のことを教えてもらえる人間ほど、人生も上手なわけだ。私は鍋の話をしていたはずでは?

 

「他人の手によって成立する鍋」について

 店で食う鍋が「(自分の介入する余地なく)他人の手によって成立する鍋」であるかかどうかは甚だ疑問ではあるのだが、色々面倒くさいので、頑固親父にマンツーマンで作ってもらう贅沢な鍋屋でも想定して頂きたい。頑固親父が選んだ鍋の中に、頑固親父が選んだ食材を入れて、頑固親父が選んだつゆで煮込み、頑固親父が厳格に定めた「食べごろ」に従って正しく粛々と食す鍋ということにしておこう。頑固親父は鍋のプロなので、彼の指示に従っておけばひとまず万事オッケーなのだ。頑固親父が「白菜はシャキシャキのうちに食え」と言うならそうするし、「白菜はしなしなになってから食え」と言うならそうする。「自分と他人の手によって成立する鍋」との違いはといえば、「自分は白菜シャキシャキ派なのですが」とか「自分はホルモンが苦手なのですが」とか「ちょっと味が薄いので醤油足して良いですか」と言ってそれが認められるとは限らないことである。頑固親父が白菜はしなしなって言ってるからにはしなしなで食うべきだし、ホルモンを入れたからにはホルモンも食わなきゃならんし、薄味こそ食材本来の味が生きると言われたら薄味で食わねばならぬのだ。然るべき時に。それがうちの店の正しいやり方だ。嫌なら他所の店で食いな。教わることと、指示されることは違う。とはいえ、目の前で展開されている鍋は「完璧な鍋」なので、自分の意思さえあれば、そこから「学ぶ」ことは出来る。ウーン、気の利いたオチが浮かばないのでここで〆ます。〆は雑炊です。「自分、〆はラーメン派なのですが」と言おうとも、この店ではそれが一切許されないのです。

 

誤差だよ誤差

 一生に食う鍋の数を10とした時に、上の3つの鍋はどのくらいの割合で楽しむのがベストなのだろうか。自力も大事だが得るものの大きさを考えれば協同の配分を多めにした方が良かろう。他力に関してはここぞという時に食べるくらいで差し支えないと思う。「自分の手によって成立する鍋」が4、「自分と他人の手によって成立する鍋」が7、「他人の手によって成立する鍋」が2くらいかな?私の個人的な好みを大いに反映させるならば、9・1・4になる。基本的に鍋は独りで食いたい。他人に遠慮しながら食う鍋はぶっちゃけ苦手だ。んで、もし上手いやり方があるならそのやり方通りに従うから積極的にやってみせてほしい。総数10に対して鍋の数が溢れてるって?あー、ウン。それは「計算が出来ない鍋」です。

 

 

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