珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

あの世の本棚なんかに絶対屈したりしない覚書|あの世の本棚には勝てなかったよ……

読みかけの作品があります(半ギレ)

体調が優れない時ほど読書が捗る。このままポックリ逝くなんてことは万が一にも無いだろうが、億が一、兆が一には起こりうるかもしれないという滑稽な焦燥が、私を読書に駆り立てるのだ。ちょっと待ってくれ。まだプラトンの著作を全部読んでない。ニーチェキルケゴールのやべー本もまだまだ読み足りない。カントもヘーゲルも積んだままだ。スマホアプリの青空文庫ビューアには芥川龍之介の『芋粥』が読了率39%のまま残っていて、毎日毎日「読みかけの作品があります」と通知で脅してくる。かれこれ1ヶ月くらいは脅されていると思う。いつまでも放ったらかしにして通知を切らない私も大概だが、青空文庫ビューアからしても「どうしていつまで経っても続きを読まないんだ?こいつはあと何べん言ったら分かるんだ?」とさぞかしイライラしていることだろう。ハァ。どれもこれも、人生の長さに対して読みたい本が多すぎるのが悪い。「あの世にも本はある」ということをたった一言誰かが保証してくれたなら――私は絶望しながら安心するだろう。

 

あんたはすごい

ソクラテス先生なら、きっと笑顔でこう言うと思う。「いいかい、あの世には本があるどころか、本を書いた当人たちがそこで暮らしていて、我々が死んだあと彼らと直接語り合うことだって夢じゃないだろうから、一体何を焦る必要があるのかね」と。そう、アイツはそういうヤツだったな。毒杯を仰ぐ直前に「死んだらあの世で何をしようかな」ってウキウキしてるのがソクラテス先生だ。なあ先生ちょいと聞いてくれや、私は基本あの世では何もしたくないのさ。何もないところで、何もせずに、何者でもないようにやる、いやそれすらやらないようにやっていたいのだ。だからあの世に本があるとか作者がいるとかそういうことが保証されてしまっては大いに困る。私はきっと、あの世においても書物の誘惑に負けてしまうだろう。ふええ疲れたよおもう何もしたくないよおと言いつつ本棚を漁ってしまうのだろう。ところがどっこいその一方で、何もしたくないとぼやきながら、仮にあの世にも本があるのなら、この世で半分あの世で半分読んだら良いのでは、などと考えてしまうお調子者の自分もいる。こっちとあっちで半分ずつ、読書欲という負債をうまいこと折半して――ああ、いや、そうだった、違うんだ、私はあの世では何もしたくないんだった、何もしたくないからこの世にいる間に読める限りの本を読むのだ、あれもこれも、一体どれから手をつけたものか、オイオイ黙って見てりゃちょいと あんたわたし 落ち着きなされよ、あの世でも本は読めるんだからそんなに焦らんでも、イヤイヤだからあの世で本は読まないんだってば、アーーー

 

本が読みたいことと本を読むことは違うんだ

1番の悪手は、この世においては「どうせあの世で読めるんだから」と言ってこの世の読書を放棄し、あの世においては「やっぱり何もしたくないわ」と言ってあの世の読書を放棄することである。それに比べたら、この世でもあの世でも読んでみたり読むのをやめてみたりまた読んでみたりして1人でわちゃわちゃするくらい可愛いものだ。まあ実際は、あの世に本があるかどうかなんてこの世の人間は誰も知らないわけだけれども。「あの世で本が読めるか分からんし、仮に読めたとしても読む気分になるかも分からんが、かといって読めない保証も無いわけだし、この世ではそこそこに読んでおこう」くらいが賢い。この世に読みたい本はいっぱいある。あの世にも読みたい本があったら素敵だなとは思う。けれどあの世ではなーんにもしたくないんだよな。この世でもなーんにもしたくないけどさ。

 

 

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