珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

これ自体「意味が有る」が無くて「意味が無い」が有る覚書|「無い」も「有る」も「有る」し「無い」

そこに無ければ無いですね

「無い」ということはすなわち「  」ということなのか、それとも「無い」というそれそのものが「有る」ということなのか。これは長いこと噛んでいられそうな哲学のガムだ。個人的には後者であることを願う。「無い」というそれそのものがそこで終焉を迎えてほしくないからである。後者の「無い」はきっと無限に続く。「無い」は勿論『無い』、「無い」が「有る」のも『無い』、「無い」が「有る」のが「無い」のもまた『無い』だからである。そうしたところで何も生まれないと分かっていながら、悪あがきのように手持ちの0と0を足したり引いたりかけたり割ったりして、『無い』の数式は永遠に続くのである。無いものは無い。自分の外に無いものは無いし、自分の中に無いものも無い。あれやそれがどこにも無いことを、「  」ではなく「無い」が「有る」と看做すことによって、全ての「無い」にも意味があると思いたいものだ。

 

全てのあるを有ると書いて全てのないを無いと書くと文章が視覚的にメチャクチャくどくなることは承知なんですけどまあ普段の記事ではその時の気分であったりなかったり有ったり無かったりしてます

 例えば、私にはこれといってやりたいことが無い。やりたいことが無いというそれそのものが、私の中に「有る」のである。危うく「無いという概念が有る」と書くところだった。「無いというそれそのもの」と「無いという概念」は全くの別物じゃないか。パンそれそのものとパンという概念は違う。パンそれそのものは”それそのもの”なのだから、我々にとってもアンパンマン世界の住人にとっても同じくしてそこに有るが、パンという概念は我々とアンパンマン世界の住人では大きく異なる(はず)、まあつまりそういうこと。ええと、それで、私の中にはやりたいことが無いというそれそのものが……いや待て、本当にそれそのものが有るのかな?それとも無いという概念が有るに過ぎないのかな?要するにこう、私にとってもあなたにとっても誰かにとってもアンパンマンにとってもジャムおじさんにとってもバイキンマンにとっても同じくしてそこに有る「やりたいことが無い」なのか、それとも私にとっては これこれこういう風に・・・・・・・・・・ 「無い」が、ひょっとするとバタコさんにとっては それそれそういう風に・・・・・・・・・・ 「無い」かもしれないような「やりたいことが無い」なのかな?

 

「有る」は無いが「無い」は有るものなーんだ

この流れはアレだ、本題の解明に取り掛かる前に本題周りのアレコレの定義やら証明やらひとつひとつ丁寧にやっていったらそれが終わる頃には本題が何だったかさっぱり忘れそうになるアレだ。ハイデガーの『存在と時間』の如く。さて、私の中には「やりたいことが無いというそれそのもの」が美術館の展示品のように陳列されてそこに有るのか、それとも「やりたいことが無いという概念」が美術館の解説パネルのように壁にかけられてそこに有るのか。まあこの際それはどちらでもいい。学芸員が展示品たるそれそのものに手を加えたらクビになるどころか下手したら捕まるかもしれないが、解説パネルの文言に手を加えるくらいじゃ悪いことにはならない、というかそれが仕事である。それそのものにはいじくる余地がどこにもないが、概念にはいじくる余地がある(かもしれない)。とある容器にとある何かが全然入ってないじゃんという時の「全然入ってない」という概念でさえ人それぞれだ。1回分の使用量に満たないことを「全然入ってない」という人もいれば、1滴さえも入ってなくてはじめて「全然入ってない」という人もいるだろう。一方で、とある容器にとある何かが幾分か入っているかもしれないし入っていないかもしれない、その容器と入っているかもしれないし入っていないかもしれない何かをひっくるめたそこにあるものが「それそのもの」であって、それ自体は誰にとっても変わらないものだ。ええと?つまり?「無い」というものがどの程度において「無い」のか、或いは「無い」というものがどの程度において「有る」のか……私さっき「まあこの際それはどちらでもいい」って言いませんでしたっけ?

 

そのうち白黒れむは考えるのをやめた

私の中には「無い」がたくさん「有る」から「大無い持ち」だね、わあい

 

 

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