珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

この世(笑)についての覚書|この世もそろそろ時代遅れなんじゃあないかしら

ふと思ったんだけど

古代から現代に至るまで、ありとあらゆる時代で名の知れた賢い人たちを見るに、この世はクソであることに気づいたもん勝ちみたいなところあると思う。いや正確に言うと、「この世はクソであることに気づいて負けたもん勝ち・・・・・・・・・・・ だ。ウム。一応言っておくが、この世は良いものだと、決してクソなんかじゃあないと、胸を張って言えるのならそれに越したことはない。そう、この世における人生を楽しめているのならそれに越したことは何もないわけで、そういった連中は純粋にこの世の勝者である。一方この世はクソであると「気づいてしまった」連中にとってみれば、この世の楽しみとは最早楽しみではなく、この世の喜びとは最早喜びではなく、この世の悲しみとは最早悲しみではなく、この世の恐れとは最早恐れではないからして、来る日も来る日も快を苦と言ったり苦を快と言ったり、動を静と言ったり静を動と言ったり、生を死と言ったり死を生と言ったりしながら、逆立ちでヒイヒイ歩む長く険しい道のりのことを、彼らは「人生」と呼ぶ。まあそんなこんなで、この世はクソであることに気づいてしまった連中は往々にして、この世で、この世のやり方において、この世らしい性質の損を被るもんだ。この世の楽しみを楽しめず/楽しまず、この世の悲しみを悲しめない/悲しまないといった性質の損を。あの世の、あの世のやり方における、あの世らしい損がどんなものか知らないから、誤解を防ぐ意味でこういう言い方をするしかない。

 

ちがうよ

この世はクソであることに気づいた連中というものが、この世のハウスルールにおいては概ね敗者であることについて述べた。そいじゃ次は「負けたもん勝ち」について。だってほらなんかこう、昔のすごく賢い人たちって大体そんな感じじゃないか?総じて「この世(笑)」みたいなスタンスじゃあないか?この世はクソとまではいかなくとも、我々が見ている世界は仮象だとか、この世は通過点に過ぎないとか、精神の快楽こそ真の快楽だとか、Q.真理とは何ですか?ーA.真理のことです、みたいなことばかり言って、この世の楽しみに溺れることをヨシとしなかった人、すなわちこの世における純粋な勝者になろうとしなかった人が大半じゃあないか?それともなんだ、私の知っているすごく賢い人たちのジャンルが偏っているのか?まあそれはどうだっていい。つまり、この世のハウスルールにおいて敗者であることは、賢者=真の勝者であることの入口なのではなかろうか!?

 

悟り世代

インターネットに悟り民が増えてきているような気がする。この世におけるこの世らしい楽しみを得ることには興味がなく、むしろ「楽しみという概念」について延々と考えている方が、物質的現象的な楽しみよりよっぽど楽しみを得られると考えているような連中のことだ。傍から見てもこの世の楽しみに対する欲が欠けているように思われる人、いますいます。彼らは何かに気づいたように見える。単に欲が少ない人と悟り民との違いは、この世への憎しみが無いか有るかの違いだな。何かの概念について延々と考えることで得る楽しみは、本人がその楽しみに虚しさを感じていればいるだけ、より一層味わい深い。楽しいのが虚しいのか、虚しいのが楽しいのか、最早分かりゃしない。その曖昧さが虚しくて、また楽しいのだ。それで、こう……昨今においても「この世はクソ」と言ったもん勝ちな文化は健在で、「この世はクソ」とより声高に叫んだ方がより多く賞賛されて、更に「この世はクソ」な理由まで説明できるような人物は「この世はクソ」マスターとして尊敬されるのだ。時たま「この世はクソ」マスターを騙る不届きな偽物が現れるが、そいつらは見たら一発で偽物と分かる。本物と偽物とじゃ、この世に対する憎悪と軽蔑と無気力の質がまるで違うからね。

 

この世は

 非常によい

 よい

 ややよい

 ふつう

 ややクソ

 クソ

✔ 非常にクソ

 

 

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