珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

カテゴリーの功罪についての覚書|うーん、これはまごうことなきクソ記事

くさいダイヤ

ダイヤのことをうんこと呼ぶのが失礼にあたるならば、うんこのことをダイヤと呼ぶのもまた失礼と看做されて然るべきだろう。しかしうんこ本人がダイヤと呼ばれて悪い気がしない、むしろ喜ばしくさえ思っているのならば、それは失礼にならないのかもしれないし……本人が抱いた気持ちなど微塵も関係なく、彼らの周囲の見えざる目、言わざる口によって、勝手に「失礼」とされるのかもしれない。「失礼」かどうかは当人が決めるんじゃねえ、俺たち世間が決めるんだ、当人はすっこんでな。ええ~っそりゃないですよ。また、うんことダイヤの価値があまりにも乖離しているために、褒め言葉として言ったつもりが却ってうんこの気分を害するかもしれない。ダイヤと呼ばれるのはどうにも馬鹿にされているようで気に食わないが、肥料と呼ばれるのはちょっと嬉しいかも、とはとあるうんこの言い分。俺はあくまでうんこなんだから、うんこ以外の名で呼ばれるなんざ真っ平御免だね、とは1丁目のうんこの言い分。また、こんな声もある。我々をほかの物質の名称で呼ぶのは失礼にあたるか否か、またどこからどこまでが明確な失礼に値するのかどうか、それはどうしても結論を出さねばならないことでしょうか?何が何でもたった1つの正しい基準を、前もって決めておかねばならないのでしょうか?そんなものを当人ではない全く無関係の者たちがやんややんやと定義して、それを一体何に使おうというのですか?まさか、我々に適用しようとかいうのではないでしょうね!――とは、ポチのうんこの言い分。

 

私は「ブロガー」であり「はてなブロガー」であり「無料はてなブロガー」でありますがそう呼ばれる限りにおいてそこに「白黒れむ」は必要ないのです

当事者どもが揃いも揃ってやいのやいの。何故かは知らんが部外者どもまで揃いも揃ってやいのやいの。当事者と部外者がぶつかり合ってやいのやいの。それどころか当事者と当事者がぶつかり合ってやいのやいの。あーもうめちゃくちゃだよ。当事者諸君、静聴あれ。あなた方個々に合わせて便宜を図ってやりたいのは山々なのだが、実際のところそいつは不可能だ。だって人間だけでも77億人いるんだから。それに加えて全ての動物、全ての植物、取るに足らない有機物から無機物まで、ひとつひとつの個体に最適な便宜を図るなんて、神様でもなけりゃ無理な話だ。しかし神の似姿たる人間は、ひとつの便利な概念を生み出した。カテゴリーである。そう、当事者の個体の声を1つ1つ聞いてたらキリがないってんで、個体どもをまとめあげて、1つのカテゴリーにする――彼らの表面的な共通点をまとめあげて、言うなれば彼らの表皮を剥ぎ取って、それをツギハギして1つの「代表者」を作ってしまえばよい。それをやるのはいつだって力を持った部外者どもの仕事だ。個体が個体の皮を自ら剥ぎ取って渡してくるわけもなかろうし。「とあるうんこ」とか「1丁目のうんこ」とか「ポチのうんこ」とかそういうのを金輪際やめて、彼ら全員のこと、つまりは彼らの剥ぎ取った皮でこさえた代表者のことを「うんこ」と呼ぶようにしよう。そしたら部外者どもは、「うんこ」の 気持ちになって考え・・・・・・・、紛糾の声を 正しく代弁し・・・・・・、「ダイヤ呼ばわりは一周回って失礼だが、肥料呼びは失礼にあたらない」と決定する。ヨシ!解決!閉廷!

 

要するにアキネイターが正解候補を絞る過程みたいな

もしもこの世にカテゴリーが無かったら、名も無き野良猫1匹、手元の鉛筆1本、塩の1つまみさえもまともに呼び表すことが出来なくなって、破滅するだろう。砂漠の砂の1つ1つを個体で呼んでやらにゃいかんのだから。我々の世界には「固有名詞」「個性」「特徴」なんてものは1つもなくて、ただ「各々が属しているカテゴリーの組み合わせ結果とそれに付けられた分類記号」があるだけなのかもしれない、なんてことを労働中に考えていた。私で例えるなら、<前略>生物というカテゴリーで、<略>人間というカテゴリーで、<略>モンゴロイドというカテゴリーで、<略>日本人というカテゴリーで、<略>女というカテゴリーで、<略>、身長156cmというカテゴリーで、<気が遠くなるほど略>、全身の毛穴の数は全部でホニャララ個というカテゴリーの、髪の毛は全部でホニャララ本あるカテゴリーに属する個体に付けられた識別番号が、「白黒れむ」なのだ。「髪の毛がある人」「髪の毛がない人」というカテゴライズが成り立つなら、「髪の毛が1本ある人」「髪の毛が2本ある人」というカテゴリーが存在したっておかしくないと思う。しかしそこまで細かいカテゴリーは人間には今のところ必要無いので、ただ用いられていないだけだ。

 

あまりデカい主語を使うなよ ショボく見えるぞ

カテゴリーは何者かを呼び表したり、呼び表した何者かを効率よく整列させたり、効率よく整列させた何者かたちに効率よく何かを振り分けたりすることに多大なる貢献を果たした。困った点はといえば、そいつが人々の間に争いを無限に生み出す最強最悪の怪物であることだ。「クソデカ主語やめろ」というのは、要は「クソデカカテゴリーで呼び表すのをやめろ」ということだな。何者かを呼び表すのに用いたカテゴリーがデカければデカいほど、人は意気揚々と喧嘩に勤しむようになる。逆に、ほぼ個人が特定できるほどの小さいカテゴリーの組み合わせであれば、たまたま対象となった人は憤慨するだろうが、大規模な争いにはならない。目は二重で鼻は鷲鼻唇は薄くて丸顔で身長は175cmで髪の毛が5本ある人に向けた発言は、髪の毛が6本ある人には全く関係がなく、一重の人にも、団子鼻の人にも、たらこ唇の人にも、面長の人にも、身長174cmの人にも、全く関係がないのだからね。だから私をディスりたい人は、余計な飛び火を防ぐために、私のことを「これだから高卒フリーター女は」のようなクソデカカテゴリーで呼ばぬよう注意すべきだ。「これだから、手がボロボロでなんか最近頭頂部がハゲてきてて年のせいか脂っこいものが受け付けなくて早朝になると決まって頭痛がする高卒フリーター女は」くらいのきめ細やかさを意識して欲しい。

 

今月のブログ執筆中寝落ち率100%

おいおい起きたら気づいたら話題がめちゃくちゃ脇道に逸れてるんだがどうすればいいんだ。ええと、本当は「『カテゴリー』は所属している当事者たちの意思に関係なく、当事者たちも気づいたら勝手にぶち込まれていた場合が大半なのだが、それに対してカテゴリー外の人間(たまにカテゴリー内の人間もいるけど)が『このカテゴリーは、こう』と勝手に定義付けしてそれを押し付けていたり、実に厄介な何が何でも事前に定義するマンのせいであちこちで火の手が上がっているんだ」みたいなことを言いたかった……のかなあ?分からない。ただ「うんこ」ってたくさん言いたかっただけかもしれない。

 

君のような勘のいい部外者は

ところで先程から、ポチのうんこ、とりわけ思慮深い彼が見当たらないのですが、一体どこへ行ったのでしょうか。何を言っとるんだね、「ポチのうんこ」なんか初めから存在しない。そこにはただ「うんこ」があるだけだ。

 

蛇足劇場 ~個体とカテゴリー、どっちが大事なのよ~

A そんなに怒らないでくれ、個体の方が大事に決まっているだろう。そりゃカテゴリーも大切なことだが……カテゴリーがあるのは個体のため、カテゴリーが成り立つのも個体によってじゃないか。個体が無かったら、一体何のためにカテゴリーを設置しようというのか。カテゴリーなんて所詮スカスカの骨、取るに足らない連中さ……そう、カテゴリーなんかクソだ。クソ喰らえだ。毎日毎日、「お前はああだから、こう」などといって、俺の、俺たちの意思に関係なく勝手に得体の知れない枠組みの中に組み込んで……カテゴリーを支えてやってるのは一体誰だと思ってるんだ。この世からバナナを綺麗さっぱり消し去ってしまったら、後に残ったバナナケースに一体何の効用価値があるというのか。この世から力点と作用点が綺麗さっぱり消えてしまったら、支点は一体何のために存在しているというのか。

 

B そりゃあ個体のことも大事だが、これほどまでに個体で溢れかえった世の中、カテゴリーが無けりゃ個体を養っていくことが出来ないんだ。分かっておくれ。もしカテゴリーが無かったら、俺たちは何を呼ぶにしても寿限無寿限無五劫のすりきれとか3.141592みたいな有様になって、ひとつの個体を呼ぶのに人生の全ての時間を使い果たすことになるだろう。それに、人間世界で用いられるカテゴリーは世界中の人間が属する場であるからして、そこに優れた人間が多く入っていれば、それだけ価値あるものになるだろう。そう、価値!残酷な話、値打ちが無けりゃ誰も養っていけないのさ。自分さえも。俺という個体には多分何の価値も無いが、「上場企業の会社員」というカテゴリーには価値がある。個体に美味い飯を食わせ、温かい布団で寝かせてやるためには、どうしてもカテゴリーが必要なんだ。

 

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