珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

死にながら生きることの出来る唯一の生き物についての覚書|生き物なんだか死に物なんだか

わたしだ~

変な生活がしたい。もう少し細かく言えば、生活の中に自分だけの変な習慣が欲しい。およそ普通の人なら思いつかないような、或いは思いついたとしても実行に移さないであろう妙ちくりんな生活習慣を身につけて、誰に言うでもなく独り粛々と継続し、「果たしてそれらに何の意味があったのか自分でもさっぱり分からんが、俺はこの生活をウン十年毎日欠かさず続けてやった」という気概の果てに、これぞ!正しき自己満足というものの果てに、この世からおさらばしたい。自分だけの変な習慣とは、言うなれば儀式である。それは「自分には自分だけの変な習慣がある」という自分に付け足して初めて成立する従属的な代物ではなくて、むしろ「自分だけの変な習慣によって自分は自分である」ような儀式。もしこの儀式を行わなかったら、自分はその日「白黒れむ」という人間ではいられなくて、となりの席の小林さんとか、後ろの席の加藤くん とかになってしまうのだ。こりゃ大変。

 

そのための名前

自分だけの、いや少なくとも当人は自分だけのものだと思っている行動によって、自分を自分であらしめることが可能なのは人間ならではだな。多分。自然界の動物や昆虫やおさかなさんが他の個体に対して自分を披露するのは「生き物としてそういう風に出来ているから」であって、人間のようにいつどこで何を誰にどうやって披露するか、そもそも披露自体をするかしないかを気軽に選べるようには出来ていない……多分。一方で、(社会的)人間は、生まれ持った性質だけじゃ全然足りない。「ヒトとしてそういう風に出来ている」だけじゃ全然足りなくて、常にそれ以上のものによって自分を自分としなければならない。「ヒトとしてそういう風に出来ている」だけの生き物はただのヒトだ。「ヒトとしてそういう風に出来ている」+「自分を自分であらしめる何か」、これで初めて人間と呼んで頂けるのだ。

 

神様は死んだことがないから分からんでしょうけども

それ以上のものを見つけることは生まれてから死ぬまでずっと義務だ。息を吸って吐かなければならないことくらい義務だ。ただ生命を維持していることは、社会的人間にとってはなんでもない。最早生きていることですらないように扱われることもある。 まだ生きている・・・・・・・ 人間に対して使われる「(生命活動は滞りなく続いているが)死んでいるも同然」という言葉は、動物や昆虫やおさかなさんには適用されないだろう。自然界の生き物に適用されるステータスは「生きている」か「死んでいる」か、間を取ってもせいぜい「まもなく死ぬ」くらいのものだろう。狩りもせず、逃げもせず、隠れもせず、たまたま居着いた安全地帯でただ一匹、お空を見ながら寿命が来るまで「死んでいるも同然」にぼんやり過ごしている野生生物がいたらお目にかかりたいものだ。そんな状態になる前に飢えと渇きでさっさと死ぬだろう。野生のヒトだってきっと同じ。一方社会動物園の檻の中に入れられた人間は、気づいたら白い部屋のふかふかの上に寝かされて体のあちこちをチューブで繋がれていたりするので、さっさと死ぬこともままならない。そう、死にながら生きられるのは社会的人間くらいだ!

 

77億分の《わたし》を当ててくれる人がいたら結婚してもいいよ

社会的人間が死にながら生き続ける羽目にならないために強いられる膨大な取捨選択。その取捨選択そのものを社会は個性と呼び、世間はそれが個性と呼ばれるのを聞く。ついつい取りすぎるくらい取れて、うっかり捨てすぎるくらい捨てられて、我にもなく選びすぎるくらい選ぶことが出来るこの世の中で、取りもせず、捨てもせず、選びもしない人間はただのヒトだ。そんなことを誰が言ったか、いや誰も言ってない、誰が聞いたか、いや誰も聞いてない、でもみんな知っている。単なる生命の維持は怠惰であると社会が言い、世間が聞く。そりゃ誰も言ってないし、聞いてもいないわけだ。そもそも社会に口はないし、世間に耳はないんだからね!あーあー、そういえば、世界中で私以外誰もやってないような、私を私とするに最もふさわしい変な習慣、変な儀式って何が良いだろうかって、そんな話をしていたんでしたね。世界中で私以外誰もやってないわけだから、「これこれこういうことをしている人」は地球上で私だけを指す言葉になるわけだ。77億分の1、実にいい気分だ。昔、笑っていいともにそんな感じのコーナーがあったな。当てて嬉しい、当てられて嬉しい、77億分の《わたし》。

 

 

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