珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

「正しい1つ」の子と彼らのチャンバラごっこについての覚書|必殺奥義世界平和アタック

ひとくち感想文

われわれはそのようにキリスト教の独自性に確信をいだくにいたり、ギリシャ・オリエント的宗教心に照らしてもすでにその特質について若干の見当がついたのであるから、キリスト教を今日精神的勢力をえようと努力している世界的諸宗教と対決せしめようではないか。

シュヴァイツェル『キリスト教世界宗教』(鈴木俊郎訳,岩波書店,1956)

 対決せしむな

 

やだなあ対決だなんて滅相もない子供のじゃれあいみたいなものじゃないですか

ここにおける「対決」とは「比較検討」を少し強めた程度の物言いであって、要するに比喩に過ぎないのだが……ええと、こちらの言いたいことはなんとなくご理解頂けるだろうか?そう、「対決すな」の一言である。イヤ分かってますよ、宗教研究の見地から、学術的な観点から、キリスト教と世界諸宗教の相違点を見比べてそれらを「対決」させようというただそれだけの話でしょう。歴史学において古代と中世をぶつけ合うように、生物学においてヒトとサルをぶつけ合うように、数学において0と1をぶつけ合うように、宗教学においてキリスト教と世界諸宗教をぶつけ合おうというだけのシンプルな話でしょう?「対決」とは単なる表現に過ぎないのだ。しかし世の中には「比較検討」という文字が辞書に載ってない人がいて……アーこの話はやめよう。ハイ!!やめやめ。

 

宗教性の違いにより解散する人類

キリスト教世界宗教』を読んだ感想としては……えー、……結局お互いがお互いに対して抱いている認識はほとんど一緒で、その認識の詰まったビンに対して「是」と「否」どちらのラベルを貼るかの違いでしかないんじゃなかろうか、ということだけ分かりました。学問的なことは難しくて分かりませんでした。私はチョコレートを食べて「甘い」と言う、あなたも全く同一のチョコレートを食べて「甘い」と言う。けれども私はチョコレートに対して「おいしい」と言い、あなたはチョコレートに対して「まずい」と言う。私はある書物を見て「200ページある」と言う。あなたも全く同一のある書物を見て「200ページある」と言う。けれども私はその書物に対して「ページ数が多い」と言い、あなたはその書物に対して「ページ数が少ない」と言う。人は同一の対象を、ほぼ同一の認識で眺めながら、真逆の主張ないし結論を導き出す。不思議なものだなあ。これから100年後、1000年後、世界の全てが変わっても、人類の喧嘩のやり方だけは変わらないのだろう。

 

おとなにだって聞いてみたいこと沢山ある

人はどの範囲まで人と対決していいのかという問題。考察もしないうちから唯一言えるのは、人は人とreligiouslyに対決すべきではなく、”religiously”に対決すべきだということだ。religiouslyが「宗教的に」「良心的に」という2つの意味を持つのは実に皮肉がキマってて良いと思う。ところで私は無知と無関心の故にこんなことを外野から呑気に言い放てるのであって、私の中にほんの一片でもそれらへの知恵や関心があったならば、私とて武器を取り戦場を駆ける兵士になったことだろう。知恵と関心が人を駆り立てるのだ。対決へ。私があと20若かったら、夏休み子ども科学電話相談に「どうして人と人は対決するのですか」って聞くのに。盆休みおとな哲学電話相談も開設してどうぞ。

 

「正しい1つ」の子が77億人いるのよそりゃあ対決もするわよ

人間ちゃんはねえ、「正しい1つ」が好きなのよ。「正しいかもしれない2つ」とか、「正しかったりそうでなかったりする3つ」とかじゃなくて、「正しい1つ」が傍にあることでやっと安心出来るの。「正しい1つ」こそが我々の温かな両親で、我々は「正しい1つ」の子として産まれてきたのだから、「正しい1つ」を目指して成長していくのは自然なことなの。ご近所さん同士の子が仲良くしたり、仲が良くない家庭の子同士がケンカするのも当たり前のことなの。そこに問題があるとすれば、人間ちゃんは何が正しくて何がそうでないのか、さっぱり分かってないってことね。

 

 

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