空っぽの大盛り弁当についての覚書|ここは空っぽを大盛りしたブログです
大盛り弁当ハーフサイズの大盛りをハーフでください
矛盾しながら合理的に生きられるようになりたい(という矛盾)。客観的に見れば、もしくは言葉の上では矛盾しているのであるが、主観的に見れば、つまり当人にとっては、これっぽっちの矛盾も無いかのように。具体的に言えば、「贅沢な貧乏」とか、「優雅に余裕がない」とか、「スマートなデブ」とか、「アホの天才」みたいな。実際、私が「贅沢な金持ち」になるためには206本程度の骨折りじゃ済まなくて、前世の骨と来世の骨まで折ってやるくらいの気概と代償が必要なのだろうから、そこまでするくらいなら「贅沢な貧乏」を極めた方がよっぽど賢いと思う。一見なんにもないようで、実のところはたくさんある。客観的にはなんにもないのだが、主観的にはたくさんある。こういう生き方を、「空っぽの大盛り弁当」とでも呼ぼうか。
死ぬ気でやらないよ 死んじゃうもの
とまあそんなことをつらつらと書いたが、結局のところは自己変革するのが面倒くさい人間の言い訳に過ぎないのである。こんな私だって、今からでも死ぬ気で何かを頑張れば、金持ちとまではいかなくとも小金持ちくらいにはなれる可能性は十分にあると思う。死ぬ気で何かを頑張りさえすれば。例えば死ぬ気で資格を取れば。例えば死ぬ気で就職活動すれば。例えば死ぬ気で投資を勉強すれば。例えば死ぬ気で動画を作ってYoutubeに投稿すれば。例えば死ぬ気でアフィブログを運営すれば。例えば死ぬ気で婚活すれば。ウン、最後のはナイな。こう考えると、金持ちになるのって面倒くさいな。だから金持ちになることを諦める代わりに、貧乏なままで、金持ちが贅沢をするときと同じくらいの快楽が得られる方向に努力しよう。ああでも、金持ちが贅沢をするときと同じくらいの快楽が得られる方向の努力ってのも、それはそれで面倒くさいな。
えっ早くない
もう現代社会の中から得るものは何もないと思っているので、現代社会の中から何かを得るための努力全ては私にとって虚しいものだ。この世での大きな買い物はやり尽くしたと確信している。あとは生命の維持に必要な食料品を買って、生活の維持に必要な生活用品を買い、唯一のやり残した買い物である本をちまちま買いながら、お迎えが来るのを待つだけ。また、この世での大きな経験はやり尽くしたと確信している。海外旅行なんか行ったことないが、行きたいとは思わないし(そもそもこんな情勢じゃ行きたくても行けないけど)、結婚なんかしたこともないが、したいとは思わないし、日本中のあらゆるテーマパーク、商業施設、世界中の観光地、博物館に美術館、合コンとかオフ会とかコンサートとか、他にもスポーツ、アウトドア、そういったものをアレコレ思い浮かべてみるが、特に行きたいとは思わないし、やりたいとも思わない。なので、私の人生において行くべきところ、やるべきことはすべて消化しきったのだ。買うべきものはすべて買った。行くべきところはすべて行った。やるべき娯楽はすべてやった。当方27歳、これからの人生はすべて消化試合である。
何書いてるのか分からなくなってきたので閉廷
あー、えー、完全に話題が逸れてしまったが、当初の話と強引に結びつけると、こう。「この世で自分が得るべき快楽はほぼ全て取り尽くしたと考えている人間が、あたかもまだこの世に残した快楽があり、今もなおその快楽を求め続けている人間として矛盾なく生きること」。飽和しながら欠乏して生きること。ウーン、飽和しながら欠乏するってどうやればいいんだろう。人間ちゃん、ただそこに生きてるだけの状態でも快楽を求め続けるように出来ている生き物ですから、ただ生きてりゃいいのかしら。まあ一度飽和したからってそこで終わりというわけでもないのだし、飽和状態にならないように容量を拡張する努力、すなわち買うべきものや行くべきところややるべき娯楽を見つける努力を死ぬ気でやれば、矛盾しなくたって済むのだが。