幸福のための不幸についての覚書|好きな動物ランキング 1位ねこ 2位ペンギン 3位ピカチュウ
なにか書きたいけど書くことが特に思い浮かばないので幸福について考えることにします
人は本当に「幸福になるため」に存在しているのだろうか。それとも「幸福のために不幸になるため」に存在しているのだろうか。目的の話である。我々の観賞者からすれば、ある人間が最終的に幸福へ至ろうが至るまいがどうでもよくて、彼が幸ないし不幸もしくはその中間に落ち着くまでに通る過程、そこでどれだけ面白可笑しくジタバタするかの方が肝心なのではあるまいか。運良く目の前に幸福が落ちていたとしても、それをただ拾い上げるだけの人間は、観賞者からすれば実に面白くない。賞金のかかったおもしろバラエティ番組で、視聴者を楽しませることを放棄して独り黙々と高得点を叩き出し、結果何の張り合いもなくぶっちぎり首位で100万貰って帰る出演者がいたら、それこそ放送事故というものである。であるからして、観賞者の側からすれば、幸福の前でわざとすっ転んでみせたり、幸福の周りを意味もなくダバダバと走り回ってみたり、足元の幸福にまるで気づかない阿呆の振りをしたり、幸福の一歩手前で落とし穴に落ちてみたり、幸福の目の前で突然心臓発作を起こしてお陀仏するような人間の方が、面白いのである。
俺が、俺たちが、幸福だ!
幸福の定義は人それぞれであろうが、この世で最も大きな幸福、つまり最終地点にある幸福とは、かの観賞者どもをひとり残らず殺してしまうこと、もしくはひとり残らず己の奴隷にしてしまうことと言ってもよかろう。我々に不幸という余興を強いる連中を我々の上から排除すること、それすなわち、幸福のために苦しむ必要がなくなることである。「幸福のために苦しまなくてもよい」という幸福よりも幸いなものが果たしてあるだろうか。最早「幸福に至る過程」などというものは存在しない。幸福は目と鼻の先にあるのでもなく、頭上にあるのでもなければ、足元にあるのでもない。幸福までの道のりは一切存在しない。よって我々は1ミリも動く必要はない。何かを欲求する必要もない。そこでは我々自身が幸福そのものなのだから。
27歳独身だけどこないだペンギンのぬいぐるみを買った
私自身のことを思うに、今生においてかの観賞者どもをギャフンと言わせるだけの力は持ち合わせていないようである。しかし彼らの手のひらの上で滑稽な余興を披露し続けるのも癪なので、極力彼らを喜ばせないような人生の進ませ方を考えねばなるまい。連中は我々が無様であればあるほど手を叩いて笑う。特に彼らが好んでいるのは、我々の「欲して手に入らない」さまである。届かない位置にあるバナナを取ろうとして必死になっているサルを見て笑っている人間も、結局そのサルと一緒なのだ。飼育員が投げた1匹の魚にペンギンの集団がよちよち群がる様子を見て笑っている人間も、結局ペンギンの群れと何も変わらないのだ。サルやペンギンの方がカワイイだけよっぽどマシだ。人は越えられない壁に対してあまりに無力である。人の群れはたった1つの王冠に対してあまりに数が多すぎる。そしてかの観賞者どもはそんな人の姿を見て笑う。無力な人間たる私に出来ることは、壁には背を向けてだんまりを貫き、足元に転がる王冠を見ても決して手を伸ばさないことだ。人が、人でありながら、 人のくせして 、欲しないこと。彼らにとってはそれが何よりも面白くないらしい。
求めぬことを求めよ、さらば与えられん
この世で最大級の幸福が「幸福を欲しないこと」によって得られる辺り、やっぱりこの世はロクでもねえな。