珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

自分の「意志」にとことん振り回される覚書|せ……選択の自由

 そういう日もあるよね

書く意欲は多いにあるのだけれども書くネタがないので手元に有る本の付箋が貼ってある箇所を適当に開いてそこから話を広げることにします

 

あーハイハイそういうやつねハイハイ

下級の欲求能力の規定は自然規定である。そのかぎり、人間がそれを自分のものとすることは必要とも思われないし、また可能であるとも思われない。けれども、まさに自然規定である点で、それらはまだ人間の意志または人間の自由には属さない。なぜかと云えば、人間の意志の本質は、人間が自分で自分のものとしなかったようなものは何もその中にないということだからである。人間はそれ故に、人間の自然性に属するものは 異端者・・・ と見ることができる。ただしかし、この異端者も人間がそれを自分のものとするかぎりにのみ、云いかえると人間が決意をもって自分の自然衝動に従うかぎりにのみ、人間の中にあるのであり、人間に属すものである。

ヘーゲル『哲学入門』武市健人訳、岩波文庫、1952

 

珈琲の呼吸

人間が自分で自分のものとしなかったようなものは何もその中にない。確かに、私は「呼吸」を自分のものにしようと意志したことはない。波紋戦士鬼殺隊士なんかは別として、「よ~し今から自分の呼吸を自分のものにしちゃうぞ~」なんて意志する必要はないし、だいいち一体どうやって自分のものにしろというのか。呼吸に名前でも書いておくか? 山吹色の波紋疾走サンライトイエローオーバードライブ って?今頃ヘーゲル先生が渋い顔して首を横に振ってそうだが、まあなんだ、「呼吸」ってのはほんの例え話だ。意志――自分で自分のものとしなかったようなものがその中にないというのなら、逆に言えばその中にあるのは自分で自分のものにしようと決意したもののみ、ということになる。「俺に意志なんかないよ、周りに流されるままの人生さ」などとアンニュイに構えたところで所詮それは詩的・文学的な表現に過ぎないのだ。ここでは哲学的な表現で話せ。あー、ところで、人ってどこまで意志せずに生きられるんでしょうか。

 

その「意志」は上手くいきましたか

哲学的な「意志」の問題は私には幾分か難しすぎるので、もう少し一般的な「意志」の話をすることにします。人生を、今この瞬間からほんの少しずつ過去に遡って、自らの「意志」が一体どの地点で途切れるのか見てみよう。私の場合なら、そうだな、「今のバイトを2年半続けているのは自分の意志か?」これは間違いなく自分の意志だ。客はクソだが、時給はいいし、色々都合がいいし。ではもう少し遡って、「今のバイト先を決めたのは自分の意志か?」これもまごうことなき自分の意志だろう。私が1人でタウンワークを眺めて、1人で決めた。更にもう少し遡って、「次のバイトを夜勤にしようと決めたのは自分の意志か?」こちらも自分の意志であると断言できる。こんな調子で遡っていくと、案外あっさり高校大学時代辺りまで戻っていくことができた。そこにおいてもなんだかんだで、大学を決めるところから大学を辞めるところまで専ら自分の意志であることを確認した。私の人生、だいたい私の意志に基づいて進んでいることに気づいて驚いた。私がおバカ故にたまたま上手くいかなかっただけであって、これは大層幸せなことではあるまいか。そう、唯一にして最大の不幸は、私の能力が私の意志の圧倒的な自由度に全く追いついていなかったことである。

 

だから人生が下手なんだよお前はよ

私の意志は、私の才無きに反して、あまりにも自由であった。これはあまりにもやりきれないではないか。私の意志は、私の才無きの故に、ある程度の適切な制限が加えられるべきだったのだ。きっと。私が何かを意志した際において、私を気絶させてでもその意志を制限するような何か、人でも、金でも、物でも、時の運でも、そういうものによって、私の意志は適度に捻じ曲げられるべきであったのだ。なんと贅沢で、なんと罰当たりで、なんと傲慢な悩みであることか。これを簡潔に表せば、「お前らどうしてあの時俺を止めてくれなかったんだ!」の一言に尽きる。なんと立派で、なんと尊大で、なんと最低な責任転嫁だろう。「適切な制限が加え られる・・・ べきだった」だって?「適切な制限を加えるべきだった」の間違いだろう!20年近くもの間、私の意志を自由にさせてくれた両親に対して、お前ってやつは。グゥ。酷い人間もいたものだ。

 

廃線を征く

私の意志は、私の人生を良い方向に導けるだけの力を持っていなかった。ただ有り余る自由を振りかざして、まるで見当違いな脇道を、胸張ってずんずん歩いてここまで来たのだ。そして恐ろしいことに、私の意志はこれからもきっと自由である。今のバイトを辞めるも自由、新しいバイトを始めるも自由、山に篭もるも自由、海に沈むも自由なのだ。おお、自由とは、かようにもおぞましいものであったか。意志において自由の身でありながら意志の自由を全く活かしきれないのなら、囚われの身よりも却って不自由である。この辺りに、誰かが敷いた古いレールでも残ってないだろうか。草ボーボーだろうが錆びていようがなんだって構いやしない。私は見捨てられた線路の上を歩く。

 

 

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