珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

かつてあるものだったものの成れの果てについての覚書|人間目線で考えるよりモノ目線で考える方が圧倒的に楽しい

※頭空っぽにして読んで欲しいシリーズ

 

一歩引いたところからぼんやり眺める欲望は面白い

正直に白状しよう。私は欲望が好きだ。欲望というものが好きだ。口でいくら欲望なんか嫌い、欲望なんか汚い、欲望なんかクソ喰らえですわと言っても結局身体は……と言うと語弊があるので、頭は正直なのだ。一応補足しておくと、私は決して欲望の対象が好きなのではない。例えるならば、「金!女!酒!」のことが好きなのではなく、「金!女!酒!……に対する欲望!」のことをこよなく愛しているのだ。ふふん。欲望の対象も欲望している人間も好きじゃないが、欲望している人間の欲望はなんだかころころしていてカワイイと思う。

 

お金の隣に並んで歩きたいんじゃなくて後ろからこっそりついて行きたいんだってば

いや待て、お前は散々このブログで「お金!好き!」と公言してきたではないか。ウーン、確かにそうだ。実際、給料日を3日後に控えており心ウキウキワクワクである。増えた口座残高を眺めるあの瞬間、あの瞬間のために生きてる。というかあの瞬間のためにしか生きてない。しかし同時に私は以下のことも公言してきた。「お金で買えるモノ・コトにはさして興味がない」と。この矛盾を度々自分の中で咀嚼してきた。これに関しては一応過去に結論を出していて、いつだか記事にもした気がするが、要するにお金とは「安心」そのものであり、私はお金のことを本来の役割であるモノ・コトの引換券とは見なしておらず、ただただ「安心」の引換券としか考えていないのだ。これはこれとして、これ以上の考察は必要ないとは思う。しかしながら以上の結論は、私はお金の本来の役割を否定或いは無視して、己が勝手に欲するところのもの、すなわち「安心」を、お金に対して無理矢理押し付けているに過ぎないことの証明でもある。お金に幻想を見た上で、その幻想ごと、いやむしろ幻想の方をよりいっそう愛している。お金の本来の役割に、「人に安心を与える」という仕事が果たして含まれているだろうか?もし含まれてたらゴメン。この段落、いやこの記事まるっと無かったことにしてくれ。欲望の対象について、対象そのままを欲望することは、少なくとも私にとっては、なかなか骨が折れそうだ。

 

お金を自分好みにカスタマイズすること

お金が好き」と「お金に対する欲望が好き」と、いったい何がどう違って、違ったから何だと言うのだ。私の書くこと・考えることにありがちなのだが、自分が出した結論に自分の思考が追いついていない。だいいち、この記事の最初の段落は昨晩書いたもので、これは本来昨晩の私が説明すべき箇所なのだ。今日の私には何の説明義務もない。根拠のない自論をそれらしく見せるために証明を継ぎ接ぎしたり捻じ曲げるなんて最低だ。ちくしょうめ。ええと、比較しやすいように言い換えるなら、「お金そのものが好き」と「お金が欲しいことが好き」ってことだ。こうすると全然違うな。今が国語の時間だったら上手く答えられる自信があるのだが、生憎今は国語上の解答は求めてない。えー、だからつまり、後者はお金の本来の役割に自分の欲望=幻想をあれこれ加えてかき混ぜた結果生まれたキメラみたいなもの、お金が人間の逞しい想像力によって希釈されその本来の姿を薄められたもの、そういう「かつてお金だったものの成れの果て」が好き、ということだ。そういうことだろう?昨晩の私。間違っても、「お金が好きな自分が好き♡」ということではない。

 

パンはパンでも食べられないパンはパンの本質

ここに食パンがある。封は開けてしまったが、ここにある食パンは、まごうことなき食パンである。全力で食パンを体現している食パンである。それで、食パンに尋ねてみる。なあ食パン、生き物の腹を満たすという仕事は、お前の元々の存在のうちに含まれているのか?それとも我々生き物がお前に見ている幻想に過ぎないのか?我々がお前を見て「食べたい」と欲望したとしよう。すると、我々の目に映っているお前はもう本来のお前ではなくて、「欲望された食パン」、すなわち「かつて食パンだったものの成れの果て」に過ぎないのだろうか?もしもお前の存在のうちに、「食べられる」ということが含まれていないとするならね。ましてやジャムを塗られたり、チーズを乗せられたりするなんて以ての外だ。ただの一度「ジャムを塗って食べたいなあ」と欲望されたお前は、その時点で我々の頭の中に閉じ込められた上で自分の中のなにもかもをぐちゃぐちゃにされて、我々の逞しい幻想に耳から耳まで希釈されるのだ。私は食パンのあるがままの姿を愛しているのではなく、食パンが食べたいという欲望を愛しているのであって、つまりは私に食べられる食パンという幻想を愛している。

 

あーもう睡眠時間めちゃくちゃだよ

私はあらゆるものをモノ視点で見ることが好きなので、今日も食パンの気持ちになって考えてみた次第であるが、そもそも食パンは人間様が「食べるため」に作ったもので、現在でも変わらずその目的を明確にしていることから、食べられることが存在の本質のうちに含まれていても何らおかしくなくて、むしろ食べられることに本来の姿があり、私はトンチンカンなこと述べたのかもしれないが、そうなると「欲望されなかった食パン」の方が「かつて食パンだったものの成れの果て」であるということになり、結局この世には「あるもの」「かつてあるものだったものの成れの果て」の2種類が存在するということだ。今夜も仕事なのでこのくらいで勘弁してください。

 

 

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