珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

転がり落ちた者から昇り続ける者への覚書|という名の単なる自慢話

今でも赤茶色でやや横長のランドセルに憧れがある

子どもって難しいな。正しくは、「子どもに対する自分の気持ち」って難しいな。私は自称、子どもが苦手である。何故”自称”かというに、基本的にはキャッキャ走り回る子どもを見ていると「ウゲーッ!クソガキ!」と考えたりするような精神的にゆとりのない大人なのだが、ちょっと気分がいい時に見る小学生の下校風景なんかは実に微笑ましく感じられて、そのへんの感情がよく分からないからである。まあ要は、己の機嫌のよしあし次第ということか。ちなみに、1番好きな下校風景は小学校高学年の女の子が2人でおしゃべりしながら歩いている場面である。やましい目で見ているわけではないので、私を見かけても通報しないでください。

 

小1から見る小6はほんとうにでかい

子どもを眺めている分にはいいのだが、接するとなると実に難しい。小学1年生から6年生くらいまで、ついつい同じような具合に接してしまう。しかし12歳の子どもに対しても6歳の子どもと同じような態度で接するのは流石に失礼だろう。「優しい口調で!平易な言葉で!否定しない!鸚鵡返しして、肯定する!」などと懸命に意識したあと、「あまりにも子ども扱いしすぎたかな?」と後悔するのが定番である。自分が高学年の時に、こんな接し方をされたら「何言ってんだコイツ」となったに違いない。今は夜勤独身フリーターなので子どもと接する機会もまるでない。常に全身黒ずくめだし猫背だし目つき悪いし、細い路地ですれ違ってブザーを鳴らされないことに感謝するばかりだ。

 

これは過去のしゅみです

ところで、小学校高学年の女の子のことを「子ども」に括ってしまったが、あのくらいの年頃の女の子は大人顔負けなくらい色々と考えているものである。ぶっちゃけ中高生と同じくらいに扱ってもいいと思う。実際、自分がそれくらいの時もそこそこ考えていた。初めてブログを開設したのも確か小学5年生の頃、6年生の頃には一丁前に自作HPなんか作っていた。今もあるのか分からないがファッション誌「ニコラ」を購読し始めたのもその辺りで、ただ私の趣味に合わなかったのですぐに読むのをやめ、背伸びして「セブンティーン」を買ったりしていたが、最終的にKERA!」(※1)に落ち着いた。なんでやねん。オタク文化の面では、小5の時に最遊記(※2)LOVELESS(※3)を読むなどし、それらが掲載されている比較的大人のお姉さま向け漫画雑誌ゼロサムを愛読していた。充実しててワロタ。小学4年生まではコロコロコミックがバイブルだったというのに、急にどうしたんだ。楽しそうだなあ、その頃の私。

(※1)ゴシック・ロリータ・パンク系ファッションを扱う雑誌

(※2)ハードボイルド&スプラッタ&バイオレンス&アダルトな「西遊記」。

(※3)BLGLおにショタおねショタ近親相●とわりとなんでもありなシリアスでちょっとキワどいお漫画。

 

これは過去の栄光です

先日の記事でも少し書いたが、この頃が私の全盛期だったのだ。ぶっちゃけ勉強はめちゃくちゃ出来た。塾で毎週行われるテストでほぼ毎回県内1位だったのでいつも名前が張り出されていた。絵を描くのが好きで、風景画から漫画イラストまでモリモリ描いていた。友人もそこそこいて、あちこちで遊んでいた。クラス委員をやったこともあった。先生からの信頼もそこそこあり、先生が急用で教室を離れなければならなかったときに「白黒さん先生の代わりに採点して!」と言われ、何故か教師机に座ってみんなが次々持ってくる小テストを採点したり、分からない部分の質問に答えたりしたこともあった。時々ティーチングアシスタント的なこともしていた。自由研究で賞を獲ったこともあるし、写生大会や書道コンクールも結構入選していたし、小1から小6までずっと読書感想文コンクールで表彰された。体育(と家庭科)はまるでダメダメのダメだったが、あんまり気にならないくらいにはその他が充実していた。これは将来有望な小学生ですねえ。きっと将来はいい大学に入って、公務員になったり一流企業に入社してバリバリ稼いだりするんでしょうねえ。天地がひっくり返っても、フリーターなんかにはならないでしょうねえ。

 

出来るものならこれから起こる全ての没落を私が背負ってやりたいのだが

今となっては「昔は優秀な子どもだった」と語るような相手もいないし、語ったところで痛いヤツと思われて終了だ。自分のブログの中でくらい、過去の栄華を存分に自慢させて欲しい。そして、体育(と家庭科)以外こんなオールマイティだった小学生も、落ちるときには落ちるとこまで落ちるもんだ、ということを知って、人生の難しさに思いを馳せて欲しい。自身がこういう経験をしたからか分からないが、将来有望な若人を見ると影からそっと応援したくなる。全ての人間の背後に平等に構えている没落の口の前に立ち塞がって、その口の中に大岩をねじ込み、「ここは俺に任せて先に行け!」と言いたくなる。というか、それが今の私にできる最大の仕事ではないかね。私には、アホの子を天才に押し上げてやるような才能はないが、足元がふらついている子をちょっと支えてやるくらいの手腕と経験は持っているつもりだ。昇り続けることが当たり前になっている優秀な子は、現状を維持しておくという行為にさえ時に恐怖を覚え、悪い方面へがむしゃらになることがある。「調子がよくないから、現状維持」って、それめちゃくちゃ凄いことなんだぞ。普通は、調子が悪い時はあっさり転がり落ちていくものだ。現状をキープできるってことは、稀有な才能で、これまでの努力の賜物以外の何者でもない。現状維持を誇るがいい。未来ある若者よ、その場に留まれる自分の才能を誇るがいい!富士山にだって、休憩所がある!

 

転がり落ちたからこそ分かる現状維持と停滞のありがたみ

とはいえ、残念ながら力及ばず転がり落ちてしまった子に対しては、何のアドバイスも出来そうにない。「気落ちするな!またやればいい!」とか「落ちた分だけまた這い上がれるぞ!よかったな!」と言われて、何が嬉しいだろうか。私に出来ることはせいぜい、常日頃から上昇が当たり前で、停滞は悪と考えている、考えさせられている、考えざるを得ないような優秀な子に、停滞の醍醐味を説くくらいである。

 

 

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