眠気に襲われながら義務教育の重要さを噛み締める覚書|算数はあの世でも使うことになりますって言われたらもっと勉強してた
チョコレートかわいそう
あまりにも眠いわたし「こちら温めますか」
チョコレート3点お買い上げの客「?」
異変に気づくと同時に全てを諦めるわたし「アァ……………………」
察しの良い客「袋ください」
逆メイドインヘブン
あの時察してくれたお兄さんありがとう。客にフォローされるなんて情けない店員だなあ。にしても最近はこんな具合でとにもかくにも眠く、集中力が長続きしない。接客ならまだ緊張感が残ってるのでいいが、接客以外の、人ではなくモノを相手にするような業務をしていると、止まった時間の中で仕事してる気分になる。「あと何分で終わらせる」とか「何時までに終わらせる」みたいな、労働している人なら多かれ少なかれ当たり前に持っている概念が死んで、そこに時間の制約はなくて、それどころか時間そのものがなくて……私は時間から逃げることを止め、時間も私を追うことを止めた。私も、私の時間も、体力を尽かして、お互い小休止している。そういう感じだな。今も、グウ、眠い。私と私の時間がこんな状態だってのに、明日が来るなんて信じられるか?いやそもそも、我々の眼前に、明日がやって来たことが1度でもあっただろうか?明日とは46億年前からずっと順番待ちをしている時間の云いである。2021年3月12日はそのうちやってくるだろう。でも明日は永久にやってこないだろう。
あの世で食べるこの世のポテトチップスは格別だな
ところで、私はこの私の時間というものと、いつまで二人三脚でやっていかなきゃならんのだろう。地獄で受ける責め苦の長さでさえも、人間界の時間に換算出来るらしいのだから、そういう点を考慮すれば、私の時間は決してこの世限りのものではないのだろう。ウーン、それってどうなんでしょう?あの世の時間とこの世の時間が換算可能であるという点において、我々は、「あの世のアレコレってのはやっぱり人間か考えだしたものなんだなあ」としみじみ痛感できる。そう、これこそ救いですね。日本円がアメリカドルに換算出来るように、あの世の時間がこの世の時間に換算出来るのなら、あの世とこの世ってのは国と国との違いくらいでしかないのかもしれない。ちょっとだけウフフってなっちゃうな。あの世のものがこの世のものに換算可能なのは。ウフフ。あの世とこの世の境目には外貨両替所や景品交換所みたいなところがあって、我々この世の人間には理解不可能なあの世のナニカと、それに釣り合うだけのポテトチップスを交換したりすることも、出来るのかもしれない。ウフフ。
この世の概念は万能ですね
そのようにして、天国や地獄に存在する何かしらが、「人間界の尺度で換算するとコレコレである」と言える程度のものだったら、天国や地獄は物理的(?)な隣国にまで成り下がるだろう。実は元からそうであったのかもしれないが。仮に、天使様のポッケにたまたま入っていた数センチ四方の塵紙 のように見えるナニカ が日本の国家予算と交換可能だとしたら、それはえらいことだ。天国においても人間界においても大スキャンダルだ。換算出来ないことは大切なのだ。それに、我々と全く違うはずの世界でも我々の概念が通用するとしたら、なんて退屈なんだろう。我々は死んだあともまだ「1」とか「2」とかそういう概念を使ってやっていかなきゃならんのか。ハァ。義務教育ってのは、他の世界においても重要なんだな。ハァ。