珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

人を人が救うことについての覚書|公式グッズの人見広介がめちゃくちゃイケメンだったので激しく動揺して1本記事を書きました

「救う者」を救う者はどこにいるのか?

オッス!私、慈愛と救済の心!世界中に存在する「かわいそうな人」を慈しみ、愛し、救ってあげるために日々頑張ってるの!でも悩みや苦しみって人それぞれでほんっとタイヘン!ある人にとってはアルファを与えることが救済になるかと思えば、また別の人にとってはオメガを与えることが救済になったり、またまた別の人にとってはアルファやオメガをきれいさっぱり奪い取ることこそが最上の救済で……とにかく、毎日毎日試行錯誤の繰り返しなの。でも、私が良かれと思ってやったことに対してクレームが来ることもしょっちゅうで、その度に上司はゲラゲラ笑うばかりで助けてもくれないし……私、いつになったら一人前になれるんだろう?それに、たとえ私が一人前になって、世界中の「かわいそうな人」を救うことが出来たとしても、最後に残った私のことは、一体誰が救ってくれるのかな?

 

マイナス1とプラス1を足してゼロにすることは真の救済なのか?

どうも世の中には、救いたい者は救われたいと願ってはならない、みたいな不文律があるような気がしてきた。A面のマイナスをゼロにするためにB面のプラスをゼロにすることは、この世で最も美しい犠牲のうちのひとつである。そんな不文律も存在するような気がしてきた。人は等しく苦しむものでありながら、その苦しみは等しくない。人は等しく苦しむものでありながら、より多く苦しむものと、より少なく苦しむものが存在する。そこで人はいつも、より少なく苦しむものの中から比較的余裕のあるものを選抜し、彼らを「救う者」として世界中に遣わしてきた。こんなことを言うと多方面から怒られそうだが、世界に「救う者」を遣わすのは神ではなく人なんですよね結局。で、より少なく苦しむものも、繰り返される救済の中で、消費され、摩耗する。彼らの献身によってより多く苦しむものは中くらいに苦しむものになり、より少なく苦しむものであった彼らもまた中くらいに苦しむものになった。これで、世の中平等、超ハッピー、めでたしめでたし。ええー?ほんとにござるかぁ?

 

お客様の中に「救う者」はいらっしゃいませんか?

この地上において「救う者」が神様や天使様や仏様やその他の尊いお方だったらどんなによかっただろう。なぜ人を「救う者」が人であらねばならなかったのだろう。人は消費される。人は摩耗する。尊いお方は無限であるが、人は有限である。世界中の神話を読む限り、人よりよっぽど人くさい神様、厄介な彼氏や面倒くさい彼女みたいな神様もゴロゴロ存在するようであるが、まあその点は見なかったことにしよう。人は、いつまで人を救済することに耐えうるのだろうか。人が人を救済出来なくなったとき、人を救済出来るような人が存在しなくなったとき、人の世は一体どうなってしまうのだろう。そのときこそが地上に尊いお方がやってくるときなのだろうか?ウーン、ちょっと手遅れですよ。

 

苦しむ神を一体誰が救うのか?

苦しんでいる人をカウンセリングするカウンセラーがいる。カウンセラーは人であるので、当然彼らにも苦しみはある。従ってカウンセラーをカウンセリングする人が必要になっても何らおかしいことではない。で、カウンセラーをカウンセリングする人が必要ならば、カウンセラーをカウンセリングする人をカウンセリングする人も必要になる。カウンセラーをカウンセリングする人をカウンセリングする人が必要ならば、カウンセラーをカウンセリングする人をカウンセリングする人をカウンセリングする人が……といった具合で、「救う者」の存在は無限に欲求される。だからこそ、人はその最終地点に尊いお方を据えたのだろう。そう考えると昔の人は恐ろしい程に賢いなあ。尊いお方を一度据えたならば、我々はもう「救う者」の無限欲求に苦しめられることはない。我々が唯一気をつけなければならないことは、存在が無限であり、消費されることも摩耗することも決してないと信じていた尊いお方が、万が一にも その更に上へ・・・・・・ SOSを発するような非常事態にならないよう、尊いお方を大事に大事にしてあげることである。

 

どうしてこんな記事を書いたのか?

久々にさよ教のプレイ動画を見たから

 

 

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