たくさんの人間のいろいろが交換されることについての覚書|人間のいろいろ取引所
かみは災いのもと
お金に言いたいこと。これ以上、人間を不幸にしないでやってほしい。人間はこんな紙切れのために毎日毎日死ぬより酷い目に遭わされたかと思えば、紙切れと価値を比較されたり、紙切れと交換されたり、紙切れに飼いならされたり。そのようにして人間を殺さないでやってほしい。続いて、神様に言いたいこと。これ以上、人間を不幸にしないでやってほしい。人間はこんな 神切れ のために……あっいや、なんでもないです!なんでもないんですってば!ほんとに!
どっちのお金も好きだし嫌い
このブログでは度々言ってきたが、私がお金を好きな理由は、安心をくれるからである。一方、私がお金を嫌いな理由は、安心と引き換えにあまりにも多くのものを奪っていくからである。前回あれだけお金についてキャッキャキャッキャと語っておきながら、一体何を言っているんだろう。けれども私の手元にあって自由にできる実際のお金と、私が頭の中で考えるお金の概念は、塩と砂糖くらい違うんだ。塩と砂糖、見た目はあんなに似ているのにその働きはまるで正反対だし、それでいて同じ器の中で一度混ぜくったらそう簡単に選別出来るものではない。だからこそ私はその2つを決して混ぜくらないようにしている。手元にあって自由に出来る実際のお金について語るときはナウなヤングみたいにキャッキャするし、頭の中で考えるお金の概念について語るときはあたかも喪主や告解者であるかのようにそれをやる。
一銭の金にも五分の魂
お金と交換出来るモノ共コト共にはさして興味がないが、お金と交換される目に見えない何か共には大いに興味がある。それと、お金と交換 される 人間。あー違います違います、人身売買とかそういう意味じゃなくて、人間の中にあって目に見えない沢山の概念は、だいたいお金と交換 されてしまう ということ。そういう場面において、人間は決まって受身であるということ。圧倒的に無力であるということ。今まさに、命はお金なんかじゃ買えないんだと言っているその人だって、命に準ずるくらい大切な部分をたくさんお金と交換されている 。自分では気づかないうちに。時間とは残りの寿命のうちのいくらか、つまり生命と言っても過言ではないと以前述べたが、時間=生命だってなんやかんやお金と交換されている ではないか。時間はお金じゃ買えないが、時間はお金と交換される ことが出来る。
生命の予備としての精神
たくさんの人間のいろいろがお金と交換される のをアホ面して眺めていられるほど、私は呑気な人間ではない。たくさんの人間のいろいろをお金と交換 している 犯人は一体誰だ?仮にそれを突き止めたとしても、私にはどうすることも出来ない。それの正体についてはさっぱり分からんが、それがあまりにも強大な何者かであるということだけは判然としている。今この瞬間にも大切ないろいろを勝手に交換されている 人々だって、それくらいは知っているだろう。誰ひとりとして抵抗せず黙って交換される がままになっているのは、抵抗しても無駄だということを知っているからだ。無力。無力。圧倒的無力。何故人間の中には、生命そのものの他に、精神だの、感情だの、理性だの、知性だの、そういった類のものがうじゃうじゃ詰まっているのか。もしも人間がそれらを持っていなかったら、真っ先にお金と交換される ものは生命そのものであって、ただひとつしかない生命そのものはあっという間に交換 され尽くして 、いとも容易く無くなってしまうからだろう。
観想した感想ですが
お金について書き始めると本当に筆が乗るなあ。