珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

理性という才能についての覚書|理性を捨てるか人間を辞めるか

オリンピックの競技種目に「理性」も加えてどうぞ

個人的な感情に基づいて理性というものを語ってもよいのなら、「理性は一種の才能」と声を大にして喚きたい。そう、理性は才能。サッカーの才能がなければサッカー選手にはなれないように、理性の才能がなければ理性選手にはなれないのだ。しかしながら、理性は天から万民に等しく与えられた人間の根本原理という考えの方が一般的には強いようである。デカルトの言葉を引くなら「正しく判断し、真と偽を区別する能力、これこそ、ほんらい良識とか理性とか呼ばれているものだが、そういう能力がすべての人に生まれつき平等に具わっている」、カントの言葉を引くなら「人が為さねばならぬこと、従ってまた知らねばならぬことに関する知識なら、すべての人が例外なく持ち合わせている」、等々。とはいえ、私ごときが彼らと対立するつもりは毛頭ない。冒頭にも言った通り、これは私が個人的な感情に基づいて表明したいち意見であり、「ケーキはおいしい」とか「セロリはまずい」といった意見の類となんら変わりないものと思ってほしい。

 

天におられる私たちの父がみてる

人間の中には理性の種が誰でも例外なく蒔かれているだろう。それは事実だと思う。問題は、人間はそれを正しく育てるのがすこぶる下手くそであるということである。全ての人間が正しいやり方で理性の種の生育に関わることが出来れば、間違いなく地球は賢者の星となろう。そうならないのは一体なぜか?思うに、どこかの誰かにとっては、手のかからない聡明な人間というものが面白くないのだろう。前にも同じようなことを書いたな。人間が理性の種をめちゃくちゃな方法で育てているのを見てゲラゲラ笑っている存在がいるのかもしれない。ほら、今も見てるんだろう?貴方様のことじゃい。

shirokuro-044.hatenablog.jp

 

量産型理性的存在者

だが、全ての人間の中に蒔かれた同一の種を、全ての人間が同一の正しいやり方で育てたら、全ての人間は正しいただ一種類の花を共通して咲かせることになる。外見が違うとか、食べ物や色や音楽の好みが違うとか、そんな違いは違いのうちにも入らないものである。理性の種が順調に生育したならば、人は外見や趣向の違いによって他人を区別・差別したりなんかしないだろうから。差別も偏見も上下も優劣もない完全完璧なユートピアだよ、やったね。全ての人が正しい唯一の理性を共通して持ち、それ故に彼らは外見や趣向の違いによっては一切区別されない。じゃあ、私とあなたを決定的に分ける点って一体なんなのさ。皮膚が繋がってないところ?肉がくっついてないところ?私は私の肺で呼吸しあなたはあなたの肺で呼吸しているところ?なんじゃそりゃ。「私」と「あなた」は一面に広がるコスモス畑の「こっちのコスモス」と「あっちのコスモス」くらいの違いしかなくて、言うなれば『人類』という70億本の足を持つタコ、我々はその足の1本に過ぎないのだろう。理性的な人間で溢れかえる世界においては。

 

理性という偉大な両親、人間という万年反抗期の子ども

言うまでもないことだが、私も理性の種の正しい生育に失敗した人間のひとりである。理性の種を正しく花まで育てることが出来ていたならば、「理由はないがなんとなく気に食わない」とか「悪いのはこっちだけどなんかムカつく」とか「こんなこともいちいち言わなきゃ分からないなんて」のような、理性の欠片も見当たらないような感情に支配されて自己を乱すこともなかったはずである。理由もないのに気に食わないというのはおかしい。気に食わない理由がないなら気に食わなくないはずである。自分が悪いくせに腹を立てるのはおかしい。自分が悪いのならきちんと反省すべきであるし腹を立てるべきはむしろ相手側のはずである。 言わなきゃ分からないのかというのはおかしい。相手がエスパーでもない限り言わなきゃ分からないのは当たり前のはずである。ああ、ああ、なんて人間臭いんだろう。こんな人間臭さは今すぐにでも捨て去ってしまいたい。人間臭くない人間からはどんな匂いがするのだろう。人間の匂いがしない人間。ヘンだな。人間の匂いがしない人間なんて、まるで人間じゃないみたいだ。

 

 

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