長い番号と普遍的な良心についての覚書|電話番号とそれを区切るハイフンは偉大な功績を残したと思う
人間の普遍的な良心を感じる場面
どれほどの悪人であっても他人に向かって何かしらの長い番号を口頭で述べる際には大抵いい感じのところで区切りながら伝えてくれるところ
ゴミ箱の真横にポイしてあるゴミをとっくり見ては首を傾げる(字余り)
あれ、もしかして全ての人間って「普遍的な良心」のようなものを持っていたりするのか?イヤイヤそんなまさか。全ての人間がそんなものを持っているならば、一部の人間のヤンチャのせいでそのクラスの全員が居残りで説教される羽目になったり、一部の人間のマナーが悪いせいで喫煙所がまるっと撤去されたり、一部の人間の非道な行いのために法やらセキュリティやらウイルスバスターやら平和への祈りやらを整備せにゃならん状況にはならないはずだ。だがお前初めに自分でこう書いたじゃないか。「どれほどの悪人であっても」と。ただ、彼らの目には「普遍的な良心」が魅力的に映らなかった。そして我々の目には、彼らの中に「普遍的な良心」が存するようには映らなかった。それでもなお、私はこう言わねばならないのだろう。クラス丸ごと居残り説教の原因となった彼らにも、喫煙所撤去の原因となった彼らにも、非道な行いを喜んでやる彼らにも、「普遍的な良心」はある。
他に何が要るってんだ
「電話番号をお願いします」 『0XX』「はい」『1XXX』「はい」『2XXX』「はい、ありがとうございます」。たったこれだけのやり取りで、相手の中に「普遍的な良心」があるのを感じる私は人間に対して甘すぎるだろうか。そりゃあ、単に自分が言いやすいからそうしているだけなのかもしれないし、万が一間違って伝わったら後から面倒だからってんで、そうする人も大勢いるだろう。そこまで深く考えてない人間も沢山いるだろう。しかし、長い番号をいい感じのところで区切りながら、さらにこちらの相槌を待ってから次を言ってくれるような人間が、悪人としてそこに居るのはあまりにも悲しすぎる。だってねえ、それだけ出来りゃあ十分じゃないの。長い番号をいい感じのところで区切りながら、さらにこちらの相槌を待ってから次を言ってくれる、それだけ出来りゃあ、善人になるのに十分じゃないの。
人類はいい加減自分の1番近いところにあるものに手を伸ばすべき
ルソーの『政治経済論』を読んでいる。率直な感想を述べると、結局理想の人間社会とは、人の良心頼みなのだと思った。人類がみな共通の適切な良心を持っているならば、理想の世の中なんてのは一夜城のごとく築かれるのだ。しかし実際はそうではないから、いや違うな、 そうであるにも関わらず 、人間は何千年もああでもないこうでもないとウダウダしている。きっと何千年後も同じようにああでもないこうでもないとウダウダしているのだろう。「普遍的な良心」はあったのではなかったのか?ウググ。一体あと何万年かけて膿を出し切れば、全ての人間が「普遍的な良心」へと到れるのだろうか?「普遍的な良心」は確かにそこにある。全ての人間の中に、全ての人間と同じものが、全ての人間の手の届くところにある。万人がそこに到るのが先か、地球が滅びるのが先か。人間に対する興味は尽きない。