よくわからんがどうやら詰んでいるらしい私についての覚書|10年後にまたこの記事で会おう
つみです
どこぞの世の中で言われているところによると、どうやら私はあと10年もしないうちに「詰む」らしい。それは誠に残念だ。「10年もしないうちに」とは言ったが、学歴なし、資格なし、免許なし、マトモな職歴なしでこの歳まで来てしまったという時点で世間的には既に「詰み」なのだろう。私は既に「詰み」らしい。いやあ、本当に残念だ。ところで、仮に「詰み」を認めたならば、私はその後どのような手続きを踏めばいいのだろうか。詰む前と詰んだ後で生活が全く変わらないのなら、「詰み」という概念の意味がなくなってしまうだろうから、詰んだ人間に相応しい何かしらの手続きが必要になるだろう。詰んだ旨を役所に届け出る?私は詰みましたという証明書を発行してもらう?もちろん、現実にそういう人向けの社会保障があるのは知っているのだが、そういうことではなくて、形のない不特定多数から「あなたは既に詰んでいるんです、いいですね?」と言われて「はい分かりました」とその場で納得した人間向けの、その後の手続きの内容が知りたいのだ。
「詰み」の条件とは?
10年以内に私が詰むビジョンはこうだ。今のバイトを失う。新しいバイトが見つからない。生活費が払えなくなる。家賃が払えなくなる。おわり。昨今の情勢を鑑みるに、現実でこうなる可能性は大いにある。いつまでも余った履歴書が捨てられないわけだ。それにも関わらず、詰んでいる未来の自分の姿をイマイチ具体的に描けないのは何故だろうか。私が呑気すぎるのか?それとも、誰だってそうなのか?私同様、世の中から「詰み」宣言を喰らった人々の意見を伺いたい。10年後、もしくは今この瞬間、本当にあなたは詰んでいると思うか?彼らの言い分通り詰んでいるとすれば、どのように詰んでいると思うか?逆に詰んでいないとすれば、どのように詰んでいないと思うか?まあ、そんなの分かりっこないですよね。
正道を踏んで踏みつけ踏み鳴らし陽気な足音お気楽三昧
私は将棋には全く明るくないのでかなり適当に言うが、「詰み」ってのは、「 これ以上 手を打ちようがない」とか「これ以上先に進みようがない」とか「これ以上身動きできない」という状況を指すのだろう。だからこそ、だ。私が「詰み」に対して異様に楽観的なのは。私はこれ以上に行くつもりはこれっぽっちもなくて、今足踏みしているこの場で十分満足しているからだ。皆々様の言うとおり、私は10年後には詰むのかもしれない。この記事を書いている今現在既に詰んでいるのかもしれない。でも私は今この瞬間に立ち止まっているこの場所で大いに満足している。何も持っていないが、何も持っていないこの状況で大いに満足している。満足していると書くとなんだか強がっているように見えるので、不足していないと言い換えてもいい。私は死ぬまでこの場で足踏みして、決して前へ踏み出すことはないだろう。周りの人間が泳いでいるのを尻目に、ただただ流されていくだろう。
詰んでますかーっ
正直に言うと、私が10年後に詰んでいるのか詰んでいないのかを知るのが楽しみで少しワクワクしている。いや、10年も待つ必要はないな。私が明日、詰んでいるのか詰んでいないのかを知るのが楽しみで少しワクワクしている。主観的な「詰み」と客観的な「詰み」、そのどちらにも興味がある。試しに昨日と比較して今日の「詰み」を考えてみよう。主観的には、詰んでないと思う。手にバイトはあるし、貯金もある。食べ物も着る物も住む所もある。客観的には、客観的には……やはり、詰んでいるのかねえ。学歴はないし、職歴はないし、彼氏もいない。そもそも、私に向かって「あなたはまだ詰んでいませんよ」と言ってくれるような慈愛に満ちた客観がこの世に存在するのだろうか。
まあ始まってもないんですけどね
結論。客観的にはいくら詰んでようが構わないので、とりあえず主観的に詰まないようにだけは気をつけながら慎重にやっていこうと思う。ほかならぬ私が私に向かって「詰んだ」と言えば、それはもう、正真正銘紛うことなき終わりなのだから。