珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

誰のせいでもなく何のせいでもない覚書|あらゆる原因は一体どこからやってきてどこへゆくのだろう

厄除(除けるとは言ってない)

以前、うちの部屋の郵便受けにお守りが投げ込まれていたことがあった。神社で頂けるあのお守りである。妙にテカテカした紫色の生地に金色の糸で「厄除」と刺繍してある、ごくありふれたお守りだ。どこの神社のお守りか分からないし、そもそもどこの誰が何のために入れていったのかも分からない。大抵の人はその時点で気味悪がって処分したり、多少用心深い人なら神社に持って行って供養してもらったりするだろう。だが私はこういう得体の知れないものにロマンを感じてしまうタイプの愚かな人間なので、豪胆にもそのお守りをしばらくポケットに入れて持ち歩いていた。しかしまあ案の定というか、これを持ち歩きだしてからどうにも踏んだり蹴ったりな日が続くような気がするってんで、フツーに捨てた。そんなお守りのことも頭の中から綺麗さっぱり消え去ってしまったある日のこと。今度は部屋の郵便受けにおふだ が投げ込まれていた。お札といっても安っぽいペラ紙にそれっぽいフォントで「病災消除云々」と印刷されたお粗末なものであった。私はこういう得体の知れないものにロマンを感じてしまうタイプの愚かで学習しない人間なので、回収したその日から今日までずっと靴箱の上に飾ってある。こちらは今のところ、特に害はないと思う。多分。

 

厄をため込む程度の能力

しかし今考えれば、お守りを捨てたのはちょっと勿体無かった。例えばほら、ゲームの製作陣に向かって何故こんなものを用意したと言いたくなるような役に立たない呪われたアイテムとか、ちょっとしたロマンがあるじゃない。それに踏んだり蹴ったりな日が続くなんて今に始まったことじゃあないわけで、それがたまたまあのお守りのせいにされてしまったのだ。多分。都合のいいときには「~のお陰」と言われ、都合の悪いときには「~のせい」と言われるのが、そういうものの宿命だ。お守り然り、占い然り、神様仏様然り。めでた いとやく いは表裏一体に出来ている。それをひっくり返したり再び裏返したりするのは専ら人間の所業である。

 

触らぬ神にタダ乗りなし

仮にあのお守りが呪われたアイテムなどではなかったとしたら、また当時の私が踏んだり蹴ったりな目に遭ったのが紛れもなくあのお守りのためであるとしたら、その理由はこうだ。初穂料も納めずタダで手に入れたもの、しかも神社に参拝したわけでもなくある日突然自宅にお届けされたアイテムの力で、あわよくばめでた い思いをしたいという私のタダ乗り根性に神様がお怒りあそばされたのだ。神社にきちんと参拝して、そこにいる神様にお会いすること、これが肝心。あと対価を納めること。触らぬ神に祟りなしと言うが、触らなかったら触らなかったで機嫌が悪くなるのかもしれない。見もしないのはもっとよくないだろう。神様的には、しっかり見つめ合いながらも指先がかすかに触れるか触れないかくらいのソフトタッチがベストなのかな?そんなR-18小説の導入部分みたいな触り方をして怒られないかな?そもそもこんなことを書いて怒られないかな?

 

誰のせいでもないのなら、誰のせいだというのでしょう

 「何もかもこいつのお陰/せいにしておけばひとまず安心」みたいなものって、これまでも、これから先も、人間にとっては不可欠な存在なのだろうか。歴史とか民俗を調べていると、人間同士でそんなことやってた資料がぽこじゃが出てくるからゾッとする。有名どころで言えば、魔女狩りなんかですかね。あとは某最弱アヴェンジャーとかね。私がほんの10日間程度の不幸をあのお守りにすべて押し付けたように、今だって、ありとあらゆる負の感情を身近にある何かに押し付けようと思えば簡単に押し付けられるのだ。例えば、かれこれ20年近く添い遂げているぬいぐるみ。私が生まれるより前から生きている壊れかけの箪笥。どっかのアンティークショップで買ってきた謎のオブジェ。なんならスマートフォンでもいいし、パソコンでもいいし、ベッドの下から出てきた1年前のレシートに押し付けてもいい。私の不幸をすべて押し付けられた彼らはきっと私を呪うだろう。そして大聲で嗤うだろう。人のせいにしないのも、物のせいにしないのも、神様仏様のせいにしないのも、なかなか骨が折れることだ。

 

 

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