珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

一文無しの書きたがりについての覚書|書くことがない(1643字)

特に書くことは思いつかないんですけど

なんか書きたい気分だな

 

でもやっぱり書くことは何も思いつかないんだよな

どうしようかな?

 

イデアは神出鬼没

実を言うと、こういう状況はわりと珍しい。私がブログを書くときというのは、「こういうことを書きたい」という具体的な意欲に引っ張られることが専らであって、当日よほど疲労困憊していない限り、それは達成される。逆に言えば、私がブログを更新していない日は、特に「こういうことを書きたい」という欲求が湧かなかったということである。もしくはよほど疲労困憊していたか。一応、「書きたいけど書くことがない」という状況は過去に何回かはあり、その度に「書きたい」という欲求を満たすためだけの中身空っぽな記事をこさえてきた。

 

「書くことがない」で検索して出てきた記事です

shirokuro-044.hatenablog.jp

shirokuro-044.hatenablog.jp

shirokuro-044.hatenablog.jp

 2番目の記事なんかほんとに書くことはないけど書かずにはいられない感が溢れていて個人的に好きですね

 

腹が減ったら食べ腹が減ってないときは食べないのが健全な人体運営なんですけど人体にも監査を置かないと運営体制が腐敗していくんだよなあ

「書きたいけど書くことがない」とは、意欲と現実が乖離している状態である。この手の乖離には他にも色々なパターンがあって、「書きたいけど死ぬほど疲れていて書くことができない」「書きたいけど不思議と書く気分にならない(?)」「書くことはないけどもう何日も書いてないから書かなきゃいけない気がする」「死ぬほど疲れているけど書きたくて仕方がない」などなど。1つ目と4つ目はだいたい同じに見えるが実際に書くかの否か違いがある。前者は結局書いてないが、後者は最終的に書いている。これらと対照にあるところの一致しているパターンというのは、まあ、「書くことはあるし是非とも書きたい」と「書くことはないし特別何かを書きたいわけでもない」だ。ウーン、これこそ健全なブログ運営と呼ぶべきか。

 

子供の「見て見て」には真剣に向き合う大人になりたい

ブログ運営における「書きたい」は一体どこを目指しているんだろう。記事にして書きたいことがあるとして、それを手元に有る日記帳やメモ帳に書いて同様の満足を得られるかと問われれば、全然そんなことはない。書きたい書きたいと言いつつ、その実は「見せたい」なのだから当然だ。おニューの靴や鞄を買って、誰かに見せたいなあとウズウズしているときと全く同じ感情だ。じゃあつまり、「書きたいけど書くことがない」というのは、「人になんか見せたいけど特に何も買ってないし新しく見せるようなものがない」ということになるのかな?そういう時は押し入れをゴソゴソ漁って、ずっと昔から持っているけど人前ではほとんど使わなかったような物品を引っ張り出して、「見て見て、これだいぶ前に買ったやつなんだけど~」とやればひとまず欲求は満たされよう。ただ、それをブログに当てはめて、「見て見て、これだいぶ前に思索したやつなんだけど~」とやるのはなかなか難しい。「だいぶ前に思索したやつ」を律儀に長期間保管しておけるほど、私の頭の中の押し入れは片付いていない。現実の押し入れも片付いてないけどな!

 

意欲の流出口は広く、流入口は狭い

「書きたい」という欲求は「書きたくない」という欲求よりもクリーンで健康的で明るく前向きだからいいですね。これからも書きたい気分を大事にしていこう。「書くことはあるけど書きたくない」場合よりも「書きたいけど書くことがない」場合の方が遥かに筆が進むのがその証拠だ。現実が意欲に着いてきてくれるうちは安泰だ。満タンの意欲が空っぽの現実の器の方に流れ込んで、お互い半分ずつ満たされる。その一方で、満タンの現実が空っぽの意欲の器にうまく流れ込んでいかない件については、まあ、その、なんだ、見なかったことにしよう。

 

 

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