珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

食べ損ねた油そばと人生の道づれについての覚書|カップ麺は人生……の演出

三行近況

 

カップ麺こじらせ芸人

先日とあるスーパーにて108円で買った辛いカップ油そばの味が忘れられず、退勤後にマックで時間潰してまでスーパーの開店時間を待って買いに行ったのにもう置いてなかった。これでもう今週がんばれないことが確定してしまった。昨今はコンビニに行けば大抵油そばカップ麺が1種類は置いてある。でもコンビニの油そばは高い。もうコンビニで300円近いカップ麺が一般的な価格のカップ麺を押しのける勢いで所狭しと並んでいることに違和感を覚えなくなってしまった。ぶぶか、とみ田、中本、鳴龍、すみれ、一風堂……。高級ウキュウ カップだらけの貧乏人ンボウ お断りストアに改名しろ。略してコンビニだ。それにああいうプレミア感溢れるこだわり派の油そばじゃだめなんだ。私が家でカップ麺を食べるときってのは、ひとかけらのゼイタク感もあっちゃあだめなんだ。孤独で、貧乏臭くて、惨めな気持ちにどっぷり浸かりながら、背中を醜く丸め、脚を歪に組み、ささくれた割り箸を握り締め、もの言わぬモニターをじっと見つめながらじゃなきゃあだめなんだ……

 

そういやだいぶ前にも最近のコンビニのカップ麺高いよって書いた気がするけどその時から経済面も精神面も何ひとつ成長してないんですね

上の文章だけだと、カップ麺という商品それ自体が孤独と、貧乏臭さと、惨めさの象徴だと言っているように見えてしまうので、何かしらのフォローを入れておかねばなるまい。なんというかね、こう、カップ麺は道づれに最適なんだ。私が今まさにひとりで坂道を転がり落ちようとしているときに、落ちなばもろとも、道づれとして一緒にゴロゴロ転がり落ちていくのにぴったりなんだ。いや、カップの形状が転がりやすいとかそういう意味ではなくて。おにぎりやサンドイッチなんかは、私の道づれとしてはどうにも相応しくない気がするし、ましてやハンバーグやスパゲッティなんか以ての外だ。ウーン、なんだか上手く表現できないぞ。とにかく、「ウッ、私ってばなんて惨めな人間なんだろう!」と思いながら食事をするのに、カップ麺は最高の道づれってわけだ。そういうときのカップ麺は値段が安ければ安いほどいいし、味が安っぽければ安っぽいほど私の心を満たしてくれる。これ何のフォローにもなってないな。

 

つまらない食事ほど面白い

人が食事をするのは大雑把に言えば生きるエネルギーを獲得するためだが、私自身は生きるエネルギーなんてこれっぽっちも欲しいと思っていないのが実に愉快である。私が今食べたカップ麺は、いつを生きるエネルギーになるのだろう。このあとすぐ?それとも今夜?明日?明後日?1週間後?そもそも私は何を以て「生きるエネルギー」と呼んでいるのか?人体の仕組みはサッパリなので何も言えないが、今この瞬間の空腹を満たすため、今この瞬間に摂取した食物が、ほんの少し先の未来を生きるエネルギーに換わってしまうのはなんとも忌々しいことだ。今この瞬間摂取した食物が生きるエネルギーに換わるころに、果たして私が生きたいと考えているかどうかなんて分からないじゃないか。「昨日食べたカップ麺のせいで今日を生きながらえてしまったわ!なんてことしてくれたの!ムキー!」……そんな苦情が明日の私から届いても、今日の私はどうしようもない。お腹が空いていたんだもの。

 

そういえばこんな記事もあったなあ

shirokuro-044.hatenablog.jp

飽き性なのでこの記事の存在自体忘れていました。気が向いたら追記します。

 

 

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