珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

海賊王におれはならない覚書|×ならない ◎なれない

ドン!!!

大人が何かしらの学びを始める理由や目的は、私の偏見を大いに加えてもよいならば、その8割くらいが最終的に「富、名声、力」に収束すると思う。仕事における成功やプライベートにおける成功、一言でまとめるなら人生設計に直接関わってくるところの学び。残りの2割くらいはまあアレだ、自己満足。自己満足というとなんだか聞こえが悪いが、要は趣味ですね。忙しい現代人が趣味で学びをやるのはなかなか大変だ。1番にはやはり時間的な制約が大きいし、あとはモチベーションとか。「富、名声、力」なんてのはあまりにも露骨すぎてそれを忌避する人も少なくないわけだが、やはり人間のモチベーションを維持する要素として優秀なのは否定できない。

 

言葉遊びがじょうず、言葉遊びがじょうず

「私が学ぶ理由は富、名声、力のためです」と憚らずに公言する大人はそんなにいない。大人はこの「富、名声、力」の代わりに「豊かさ、人望、権利」といった類の言葉を用いる。なるほど前者よりも後者の方がよっぽど耳ざわりがよくまろやかだ。大人になるにつれて、人はまろやかな言葉で本質を包むことを知り、技術を身に付け、それをよりいっそう好むようになる。「犠牲」を「献身」と言い換えたり、「抑圧」を「自制」とすり替えたり、慣れてくると「苦行」を一文字だけいじって「修行」にしてみたり。しまいには「悪」という言葉に「必要」という言葉をペタリとくっつけて「必要悪」としてみるなど、段々雑になっていくのはご愛嬌である。

 

子どもが「すごい」って言うんだからすごいに決まってるだろ!

ナニかとは言わないがナニかに影響された子どもが「おれは大きくなったら富、名声、力を手に入れるんだ!」と公言しても、それは実に微笑ましいものであるし、野心があって実に結構と褒められさえもするだろう。「お金はいらないし、有名にもなりたくないし、力だって別に欲しくないよ」とのたまうドライで達観した子どもよりは、無邪気な野心を轟々と燃やした子どもの方が好まれる傾向にあるのは、まあ、前者のほうが大人にとって一方的に都合がいいからなのだ。子どもがこんな無邪気に「富、名声、力」への憧れを抱いているのだから、大人が実際にそれを獲得して得意げになることは何ら悪いことではないし、むしろ子どもたちの立派な手本になるのだと。「富、名声、力」があればこんなイイ思いが出来るんだぞと子どもに示すための、言うなれば人生の教師になるのだと。「富、名声、力」を手に入れたから正当に子どもの憧れとなるのではなく、 子どもがそれらに憧れを抱いている限りにおいて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 、大人は「富、名声、力」を手入れるための正当な理由を掲げることができるのだと。

 

神も恥じらう子どもの美しさ

もしも全ての子どもが「富なんて欲まみれでいやらしい、名声なんてくだらない、力があるから争いが生まれるんだ」と言って、「富、名声、力」に向かって軽蔑の眼差しを投げかけたのなら、我々オトナ帝国の住人は人類史始まって以来のどエライ事態に陥ることだろう。何故なら全ての大人は、いや多少なりとも良識ある大人は、頭のどこかでそのことに薄々気づいているからである。もしも大人が心の底から一点の曇りもなく「富は素晴らしい、名声も素晴らしい、力だって素晴らしい」 と考えていたならば、子どもに向かってそのように教え諭すことができよう。何故なら、我々は大人ですなわち教師、相手は子どもですなわち生徒だからである。子どもが軽蔑しているものを大人が必死になって追いかけているなんて、とんでもなく恥ずかしいじゃないか。いやもう恥ずかしいどころの騒ぎじゃない。世界中の創造神が羞恥で悶え苦しむくらいの恥ずかしさだ。

 

どちらの子どもにとっても反面教師でしかない大人がここにいます

そんなわけで(?)、世の中には海賊王になりたい大人と、海賊王になんかなりたくない大人、半分ずついるくらいが丁度いいのである。前者は野心のある子どもの教師でありながら達観した子どもの反面教師となり、後者は達観した子どもの教師でありながら野心のある子どもの反面教師となる。野心のある子どもと達観した子ども、どちらにも教師が必要であり、またそれと同じくらい反面教師が必要なのだから。

 

 

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(´-`).。oO(例の海賊王になりたい人は別に富、名声、力を求めてるわけではないんだけどまあいっか)