実践の星と実践しない私と実践されないバットについての覚書|27年間バットだと思って握っていたものが実はちくわだったんだ
実践しない人間のことを実践くんはどう思っているのだろう
世の中の実践論はなかなかどうして我々に厳しい。いや我々というと失礼だな。私に厳しい。ここで私が言っている実践論とは、「知識や理論や主義主張その他を持っているだけでは駄目で何事もそれを実践に移さなければ意味がない」という考えのこと、とでも定義させて頂こう。外観だけのふわふわしたやつである。私はこの先どう頑張ってもこの実践論とだけは上手く渡り合えない気がする。実践論と正面から殴り合おうとしても、リングに上がる前に転倒して救急搬送されるのが関の山、それだけで済むならまだマシな方で、大抵の場合その場でお陀仏してしまうのだ。決して実践論が極端に強いわけではない。私が極端に弱いのである。
現代において実践の舞台というものはだいたいお金で買えちまうのでそれはつまり
自分の頭の中にあるものを実践に移せるような舞台を現実にどのくらい持っているか。結局のところ、これが全てだと思う。なんだかんだで地球は実践の星だからである。理論は実践に負けはしないにしても、勝つことはない。もしも地球が理論の星であったなら、当然理論が実践に勝利することもあっただろう。しかし残念ながら地球は実践の星である。理論の側からしてみれば、実践の星というアウェーで勝つことが出来ないのではなく、許されないのだ。相手が所有しているサッカーのグラウンドに野球チームを連れてきて勝利しようとするようなものだ。こんなわけのわからんことを言ってはいるが、私は決して理論をないがしろにする実践主義者(?)ではない。理論あっての実践で、実践あっての理論。2色の糸がよりよりされて1本の紐が出来上がるように、理論と実践は常によりよりされて1本の紐となって然るべきだろう。けれども繰り返し言うように、地球は実践の星なのだから。実践の糸は、常に理論の糸よりも一寸長い。
味方でもない
実践は我々にとって敵ではない。断じて敵などではない。ただただ遠すぎて、敵のように見えてしまうだけなのだ。イヤ違うな。遠すぎるのに近すぎるのだ。それは例えるならば、優秀な兄のようであり、多才な姉のようであり、聡明な弟のようであり、利発な妹のようである何か。彼らは手の届かぬところにある憧れの対象であり、同時に手を伸ばせば届くところにいる妬みの対象でもある。おおくの実践は、あまりにも我々に近い。私がこうしてキーボードをカタカタと鳴らしているのも、一種の実践である。キーボードを鳴らし文字を打ち文章を書き起こし記事をこさえるという実践である。一方で、私が一般的な正しさの方へ泳いでいこうとする全ての行いもまた実践である。例えばそう、『27歳フリーター、現代人の正規ルート目指して頑張るぞい』。そのような意志に向かおうとする全てもまた実践である。その意志に向かおうとする全ての実践は、生まれたときから優秀な兄を追い越し、生まれたときから多才な姉を乗り越え、生まれたときから聡明な弟を踏み越え、生まれたときから利発な妹を飛び越すくらい、遠い遠い実践なのである。まあそんな意志ないんですけどね。
ぶぉん
「なぜ自分はかようにも実践がヘタクソなのか?」と常日頃から思う。もはや私が実践から逃げているのか、実践が私から逃げているのかさえ分からない有様である。巨大な実践はもとより、些細な実践の前ですらもだもだと足踏みしてしまうのは一体なぜか?私という生き物は目の前の実践を投棄することしかできないのか?ただ1度その場でバットを振りさえすればボールに当たろうが当たるまいがそれで結構、などと最大級のお情けを与えられた打席でさえ、どうしてこうもやすやすと棄権できてしまうのか?ただ1度その場でバットを振りさえすればいいだけなのに!
そろそろ竹輪 結論をどうぞ
実践すべき実践ほどその難易に関わらず遠く遠く隔たっていてなんだかたいへんということです。