珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

理解と受容についての覚書|路上を散らかすのはだめです

ろ、路上飲みだー!!

先日、私もついに、「路上飲み」とやらをこの目で見た。ウフフ。都会のニュースではよく聞くけれど、こんなド田舎でやっても却って浮くだけだし、そうそういるまいと思っていた。フフッ。それが、いたのだ。若者3人組が、繁華街近くのでっかい公園周りに座りこんで、そのときは何を話すでもなくただただ無言で飲んでいた。すぐ目の前には公園のベンチがたくさんあるんだから、そこに座ればいいじゃないのさ。わざわざそんな場所にしゃがまなくったって。雨上がりの路上なんかに座ったら、せっかくのズボンが濡れましてよ。ああいや、こんな考えに至ってしまうのが歳をとったということなのだろうな。彼らにとっては、今の状況が自分のおケツにとって快適かなんてそんなことはどうでもよくて、”路上で”飲むことにこそ意義があるのだ。知らんけど。彼らが視界に入ってから消えるまでの間、ついぞ彼らは言葉を発しなかった。全員起きているのか寝ているのかよく分からないような顔で、ただ黙々と飲んでいた。茶を。

 

チャヲカワナイ族(少数民族)

喉の渇きを癒したいだけなら茶よりも安い水で十分だし、味を楽しみたいならより刺激を得られるジュースの方がお得じゃん、というクソ持論のもと、茶を買うことはマジで年に数回あるかないかくらいである。ここ最近は、アプリに無料クーポンが配信されたときくらいしか飲まない。最後にペットボトルの茶を飲んだのはいつだったか。何ヶ月か前にファミマのアプリに無料クーポンが届いてたときと、その更に前、セブンのアプリに無料クーポンが届いてたときだったな。ウーン、この2回を1年以内の出来事としても、やっぱり年に2回。ウーン。大学生の頃を思い出しても、水かコーヒーか野菜ジュースくらいしか買ってなかった。ウーン。めちゃくちゃどうでもいいけど、茶、茶と言っているとなんだかお育ちが悪い人みたいに見えてしまうな。でもこの場で茶をお茶と呼ぶなら水もお水と呼ばねばならぬだろうし、ジュースだっておジュースと呼ばねばなるまい。仮におにぎり理論でいくならばお茶は「お茶」でひとつの単語とすべきなのかもしれないが、茶は茶でも十分通じるわけだし、おにぎりだってちょっと寿司っぽくなる点に目を瞑れば「にぎり」でも一応通じるわけじゃん?お育ちがバレますわ!

 

奇っ怪なもの:人間 奇っ怪に見えるもの:それ以外全部

閑話休題。ところで私は「奇っ怪なもの」「奇っ怪に見えるもの」を、ぼんやり分けて考えている。この判断基準は私の主観に強く依存するものであるから、ひとたび私の頭の中を出てしまえばなんの威厳も持たないのだが、一応両者の違いを述べておくと、「それらしい説明がつくか、つかないか」。それが私の頭の中にのみ存するという点を加味して言い換えるならば、「自分なりの考察と理解によってそれらしい説明がつけられるか、つけられないか」である。それらしい説明がつけられるのが「奇っ怪に見えるもの」、つけられないのが「奇っ怪なもの」だ。繰り返すが、この基準は主観バリバリのゆるふわ定規である。もしかすると奇っ怪に見えているのは自分だけなのかもしれないし。逆にある事物を奇っ怪なものと見ていない自分こそが奇っ怪な存在なのかもしれないし。

 

もちろん路上を散らかすのはだめです

それで、「路上飲み」については今のところ、「奇っ怪に見えるもの」に分類している。不特定多数の中に”おれら”というヒトカタマリが没入していることこそが彼らにとっては重要なのだろうと、一応自分なりに考察・理解出来るから。その没入感は宅飲みでは叶えられない。名も知らぬ誰かの喧騒の中にあって、自分たちもまた名も知らぬ誰かにとっての喧騒であること。そういうのがきっと大事なんだろうなあって、おばおねえさん考えます。まあ、私は友達がいたとしても絶対やらないし、誘われてもやろうとは思わんがね。やろうとは思わんが、端から端までまったく理解出来ないわけじゃあない。それくらいで十分だ。ウンウン唸って「奇っ怪に見えるもの」に一応の説明をつけたあと、それがお世辞にも褒められた行為じゃないってんで、「一応の理解は得ました、しかし私は受け容れません」ときっぱり宣言したって一向に構わんだろう。「理解出来ること」と「受け容れ可能なこと」は、それぞれが独立したスライド式のツマミなのだ。「理解出来ること」のツマミをMaxの側に動かしながら「受け容れ可能なこと」のツマミをMinの側に動かしてもいいし、その逆があってもいい。MinとMaxの間は無限に微調整できる。この独立した2つのツマミをあたかも1つのツマミであるかのように扱ったり、微調整の効かない3段階調整型だと勝手に勘違いしたり、片方をMaxにしたならもう片方もMaxにしなければならないなどと思い込んだりするから、どんどん具合が悪くなるのだ。

 

アンダースタンディングババア

生涯学習」という言葉がある。人が生涯にわたり学び・学習の活動を続けていくこと。日本においては、「人々が自己の充実・啓発や生活の向上のために、自発的意思に基づいて行うことを基本とし、必要に応じて自己に適した手段・方法を自ら選んで、生涯を通じて行う学習」という定義が広く用いられている。wikipediaより。めちゃくちゃ雑に要約すると、「歳食っても学ぼう」ってことでしょう。私もねえ、歳食っても学び続けるババアでありたいよ。でもそれ以上に、歳食ってもなんとか理解しようとし続けるババアでありたいのだ。最終的に理解出来たかは二の次で、理解しようとし続けることこそが肝心。そうだろう。若者文化であれ、異国文化であれ、頭が働く限りなんとか理解しようとし続けたい。可能ならばそれこそ死の間際まで。ウーン。「生涯理解」って科目も必要だな。

 

大事なことなので最後にもう一度

路上を散らかすのはだめです。

 

 

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