珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

娯楽だけど娯楽じゃなかった覚書|ファミマの濃い味クリームチーズケーキを食べろ

くーねるはぐろ

寝食忘れて打ち込めることが寝食くらいしかなくてかなしい。三大欲求がそのままおの が人生の主たる娯楽になっている人間はちと危ういと思う。正しくは、三大欲求だけが、か。食べることしか楽しみがない、寝ることしか楽しみがない、チョメチョメしか楽しみがない、云々。楽しみがあるだけマシなのだろうか?ウーン。例えばラーメン好きがラーメンの食べ歩きをしたり寝具マニアが最新の寝具をあれこれ試したりするのは立派な娯楽である。一方で毎日の義務的な寝食、言ってしまえば「それをやらなければ生命を維持できないような」最低限の寝食、それを己が人生の主たる娯楽扱いしてしまうのは、やはり何らかの意味で危なっかしい気がする。当人が生活に困っているわけではないのならなおさら。もはや贅沢が義務と化した現代人のみなさん、どう思います?

 

つよい

金が有り余っているわけではないが、目下生活に困っているわけでもない。最低限の寝食を娯楽とせざるを得ないのは金銭的に切羽詰まった事情があるからだろうという推察を受けるのは当然の流れだが、ウーン、これでもね、もうちょっと出そうと思えば出せるのよ。娯楽に。でもなんというか、138円の新作パンを見て「おっうまそうだな」と考えている時間、それを購入してから『食事』( おやつではなく・・・・・・・ )として食べて「めっちゃうまい!」と感動している時間、それに勝る快楽が手の届く範囲にあるとも思えないし、たとえあったとしても、なんせこっちの経費はわずか138円なのだ。138円だぞ!?138円の新作パンの話は一例に過ぎないのだが、つまり何が言いたいかというと、凶悪なまでに快楽のコスパが良すぎるものたちが、あちこちにゴロゴロ転がっているのがわるい。

 

おいしいはたのしい

いや待て、少し考え直そう。おいしそうなパンを選んで購入しそれを『食事』として味わい満足するのは、そもそも万人にとっての娯楽じゃあないのか。何も寝食しかやることがないような人間にとっての娯楽などではなく。だとすれば、私がおいしそうなパンを選んでいるときの快楽は、何ひとつ特別なものではなかったということか。私がおいしそうなパンを食べて「おいしい!」と唸っているときの快楽に、特別なものは何ひとつ属していなかったということか。それは流石に言いすぎかな。ともあれ、これは例えるなら両手いっぱいに海の水をすくい上げて、「これが私の海」と言っているようなものだな。私が勝手に「私の海」と名付けたところのものは、現実には「みんなの海」であったし、同時に「誰のものでもない海」でもあって、実際「ただの海」であったのだ。

 

よくわからない解説

■=最低限の寝食による『娯楽』 □=一般的娯楽 とすると、

わたし ■■

みんな □□□□□

によりその差は3であると思いこんでいたのが、実際は

わたし ■■

みんな ■■□□□□□ 

であり、結局差はなんら縮まっていなかったのである。今気づいたんですか?

 

ちなみにこれが138円の幸せです

www.family.co.jp

 うまんい

 

なんでもおいしいしいくらでもねたい

物は言いようという素晴らしい言葉がある。コンビニの新作パンを選んでいるだけでウキウキできたり、ボロボロのベッドに横になるだけでニコニコできるのはコスパが良くて大変よろしいことだ。毎日三食高級フレンチを食べなければ心が飢えてしまうような人々や、毎晩ハープの生演奏がなければ身体が休めないような人々よりも、幸せの感受性は高いと思う。だが、幸せの感受性が高いからといってその人の人生が幸せであるとは限らないのだ。実際に幸せを受信しなければ。幸せ。幸せ。幸せってどこに落ちてるんだろう。あたかも海のない国で暮らしながら、大金はたいて買った自慢の船に乗って大海原に漕ぎ出す機会をただただ待っているようなやり方では、きっと幸せにはなれない。

 

 

f:id:shirokuro_044:20210708114004p:plain