珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

初めから終わりまでひたすらヤバいだけの覚書|マジヤバいよ

「ヤバい」にするか「ヤバイ」にするかで小一時間悩んだ

ここにひとつの「ヤバい作品」があるとする。この場における「ヤバい」の解釈は個人に委ねるとしよう。「過激な」という意味に取ってもいいし、「危険な」というニュアンスでもいいし、「前衛的な」「刺激的な」「反社会的な」「エッチな」など、お好みでどうぞ。で、この「ヤバい作品」に対してある人は言う。「こんなヤバい作品を作ることができる製作者はヤバい人間に違いない」と。それはある意味では正しいが、ある意味では正しくない。

 

この「ヤバいケーキ」の定義も人それぞれだから面白い

「一見してヤバい製作者がヤバい作品を作る」ことよりも、「一見ヤバくないように見える製作者がヤバい作品を作る」ことの方がより多くヤバさを感じるのだが、皆様はいかがだろうか。強いて言うならアレに似ているな、日頃は温厚な人ほど怒ると怖い説。もうちょっと具体的に例えるなら、ケーキのことなら何でも知り尽くしているヤバいくらい凄腕のケーキ職人がヤバいケーキを作るよりも、普段は平凡なサラリーマンやってて月に2、3回くらい趣味でお菓子作りをする程度のフツーのおじさんが、「ケーキ焼いて欲しいの?いいよ」という軽いノリでヤバいケーキを作る方がよっぽどヤバい。

 

狂ったキャラクターを作るために製作者が狂った人間である必要はない、ということを理解してない人が時々いるのがちょっと悲しい

作品と製作者の混同はしばしば見られることではある。以前こんな感想を見たことがある。ちょっと、いや、かなりヤバい主人公の一人称視点で進行する某ゲームにおいて、「製作者はきっと気が狂っているか、さもなくばビョーキかなんかだろう」と。イヤイヤイヤ、それはあまりにも偏見が過ぎる。もちろん、製作者が自身のヤバさを投影してそのキャラクターを作った可能性というものは十分あるが、そうと断定するのはあまりにも早計が過ぎるというものだろう。実際、その製作者のツイッターをフォローしているが、ツイートを見る限りにおいては至ってフツーのおじさんである。ゲーム作りに関して有り余るほどの才能を持った、至ってフツーのおじさんである。製作者がぱっと見フツーのおじさんに見えるが故に、あからさまなヤバさとは違った趣のヤバさをあのゲームの中にも感じられるので、こういうのはなんだかちょっとドキドキする。あのおじさんの中身のどの辺りに、ヤバさの源が詰まっているんだろう。気になるなあ。ほんのちょっとだけ、あの、先っちょだけでいいので解剖しちゃだめですか?だめ?そうですか。

 

深淵を覗くとき、深淵もまたヤバい

自らが手がけた作品を通して、あたかも岩場から染み出す水のように、外に向かって内なるヤバさをじわりじわりと滲ませていく、そんな表現者たち。その雫を自らの手で掬い上げ、ボトルに入れて大切に持ち帰って眺めては、キラキラ光るヤバさの雫にうっとりする、そんな鑑賞者たち。なんかね、そういうのがね、好きなんですよ。で、そういうのってどちらの側にも一定の教養が必要になるでしょう。製作の上ではもちろんのこと、鑑賞する上でも。私は、世の中の「ぱっと見フツーの人」が手がけたあらゆるものの、その内側から滲み出るヤバさを余すところなく鑑賞したいので、その手の内面的なヤバさにはとにかく敏感でありたいと思っている。整えられた外面だけを眺めて満足していてはだめだ。内側で滾滾と湧き続けるヤバさの泉に気づかないなんて、あまりにもったいない。教養。教養。私にはまだまだ教養が足りない。ただの「いつも見当違いな方向に深読みしては自爆するアホ」で終わりたくない。世の中には、私の知らないヤバいものがたくさんある。そして、そのうちのいくつかはきっと、私の手の届くところにある。

 

 

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