珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

ウワッ……世間だ……みたいな感じの覚書|よくわからないものの代名詞

真理をたずねて 

世間ではいつもどうでもいいことが一番問題にされる、一体どうでもいいことに無限の価値を賦与するのが世間というものなのである。

三千 ある

 

オールインワンノーレッジ

小学校の社会で教えるのはこれだけでいいような気がしてきた。それどころか高校の公民で教えるのもこれだけでいいような気がしてきた。社会人が学び直すのもこれだけでいいような気がしてきた。高齢者向けに生涯学習センターで教えるのもこれだけでいいような気がしてきた。国民総逆張りである。我々が作った世間に我々が反抗し、それによって新たに生まれた世間にまた我々が反抗する。逆張り無限回廊の末に、世間は一体どこへ向かうのか。なるほど、価値とは無価値の謂いなのかもしれない。価値は無価値だが、無価値は価値ではない。ひょっとすると、この世に価値なんてものはないのかもしれない。

 

猫(広義)

 とはいえ、私は世間に向かって正々堂々逆張りできるほど勇敢な人間ではない。「一体どうでもいいことに無限の価値を賦与するのが世間というものなのである」という金言を前にして、そうだそうだと拳を突き上げる力も残っていない。力?気力?それとも若さと言うべきか?世間というライオンが、鋭い牙を剥き出しにして私の頭にかぶりつき、今にも頭部を食いちぎらんとしているときに、私はそれを子猫の甘噛みだと思っている。首と胴体が離れて初めて、「おや、先ほど私の耳や頬をやわやわと食んでいたふかふかの生き物、どうやら子猫ではなかったらしい」と気づくのである。

 

珍しく文字数がぜんぜん足りないので適当な引用でごまかすぞ!

世間の由来・語源

世間は本来仏教語で、「場所」を意味するサンスクリット語「loka」の漢訳。「世(せ)」や「世界」とも訳される。
「世」は変化してやまないこと、「間」は空間の意味。
つまり、世間は物事が起こり、滅ぶ空間的な広がりのことで、「無常」「煩悩」の場所を指した。
この世の悩みや迷いから離れることや、煩悩を乗り越えることを「出世間」といい、「出世」の語源にもなっている。

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人間の由来・語源

人間は、仏教語でサンスクリット語「mamusya」の漢訳。
仏教語としての「人間」は、「世の中」「世間」「人の世」を意味した言葉で、「人間」に「」そのもの意味が加わったのは江戸時代以降である。

「人間」を「にんげん」と読むのは呉音。
漢音では「じんかん」と読む。
一般に「人」を表す場合は「にんげん」、「世の中」の意味で用いる場合は「じんかん」と読み分けられることが多いが、この読み分けに特別な理由は無く、「世の中」の意味で「にんげん」と読んでも間違いではない。

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 はえ~ 人間って世間だったんだな

 

ごまかすぞ!(2回目)

或る人が世間というものがいかにくだらないかつ憐れむべきものであるかというような全真理を理解することができるという場合、彼がそれを理解することができながら、しかも次に自分が理解したことを再認識しえないということ、これも無限に喜劇的である、――というのは彼はそれを理解したほとんどその同じ瞬間に自分で世間に出て行ってその同じくだらない憐れむべきことを自分も一緒にやり、もし世間が彼を尊敬するような場合にはその尊敬を世間から頂戴する、すなわち世間を是認するのである。

世間、我々が拒絶できないありとあらゆるものの別名

 

逆に考えるんだ 「最もくだらなくてもいいさ」と考えるんだ

世間が最も問題にしているものは一体何か?世間が最も無限の価値を賦与しているものは一体何か?世間が最も特別に扱っているものは一体何か?世間が最も尊んでいるものは一体何か?世間がそれを指して「何ものにも代え難い」と呼んで憚らない最上のそれは一体何か?あ、はい。そうそう、それそれ。それです。じゃあ、それが最もくだらないものなんでしょうな。

 

 

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