珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

滑稽の門についての覚書|ひらけゴマ

この期に及んで何かを始めようとしている

英語とか、数学とか、絵とか

 

でもそれってちょっと滑稽じゃないですか

そうだね(半ギレ)

 

突然何かを始めたくなるときが一番危険なんだ(経験談)

何かを始めようとしている私は大概滑稽である。何かを始めようとして、いや道具を揃えるのにお金がかかるからとか、いや時間はどこから捻出するんだとか、いやどうせすぐに飽きてしまうだろうとか、そんなことをウジウジ考えて、それでもなお何かを始めようとしている私は大概滑稽である。「大概」からはみ出した残りの部分には一体何があるかって、そこには夢と希望と期待とがある。そこは滑稽ではない。けれどもウジウジした気持ちと前向きな気持ちを同時に抱えて何かを始めようとしている私は 総じて・・・・ 滑稽である。図解するとこうなります。

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マウスで書く「滑稽」はなかなかに難儀であった

 

人の滑稽を笑うな

とはいえ、私は「『何かを始めるのに遅すぎるなんてことはない』と人は言うが、いい機会だからハッキリ言わせてもらおう、『何かを始めるのに遅すぎるなんてことはある』と。それは『できる』『できない』とか『楽しめる』『楽しめない』の問題ではなく、『滑稽』『滑稽ではない』の問題なのだ。分かるかね。この『滑稽』『滑稽ではない』という問題について、まるきり無関心でいられる人間のみ、『何かを始めるのに遅すぎるなんてことはない』というありがたい一節をいただけるのだ」なんて大口を叩くつもりはこれっぽっちもない。ないぞ。誰だって最初はひよっこ。誰だって最初は青二才。誰だって最初は素人。誰だって最初は滑稽。滑稽の道は、誰しもが何につけても通る道なのだ。あな滑稽、さりとて笑うべからず。けれどもこの滑稽の道、いや滑稽の門というべきか、これは歳を取るにつれてどんどん狭まっていくのだよ。ケツがつかえてつかえて仕方ないのさ。若い頃は誰もが通った。誰もが何度も何度も通った。誰もがいつも滑稽だった。だから誰も笑わなかった。今となっては門にケツがつっかえて前にも後ろにも進めない私を、みんなが指差して笑っている。笑うべからずつってんだろ!!

 

くそ~っ世間の分際で

「何かを始めるのに遅すぎるなんてことはない」と胸を張って言うのも恥ずかしい。今更何かを始めようとしている己を正当化しようとして、己に向かっても外に向かっても言い訳しているようで恥ずかしい。誰も何も言っちゃいないのに、一体何をそんな必死に言い訳しているんだ。かといって、「何かを始めるのに遅すぎるなんてことはある」と斜に構えて言うのもこれはこれで恥ずかしい。終ぞ何も始められない己を正当化しようとして、己に向かっても外に向かっても言い訳しているようで恥ずかしい。誰も何も言っちゃいないのに。ねえ。世間は私が何を始めようが何を始めまいが無関心なはずでしょう。私は何を始めたっていいし、何を始めなくたっていいのでしょう。それなのに「滑稽」「滑稽ではない」という問題がどこまでも絡み付いてくる。

 

世間の目を倒すただひとつの簡単な方法

何かを始めたくて始めたみなさん、始めたいけど始められないみなさん、始めたくないけど始めざるを得ないみなさん、始めたくないので始めないみなさん、壮大に何も始まらないみなさん、みなさんにも色々あると思います。そんなときに、世間というやつはいつだってみなさんをねっとり舐めるように検分して、滑稽だのなんだのと好き勝手言ってくると思います。いいですかみなさん、世間というやつは我々が目を閉じさえすればあっさりと死にます。世間が死ねば、滑稽の門は無限に開かれ、もはや滑稽の門は世界と一体化するのです。こうなればもう何も怖くありません。なんせ滑稽の門は世界そのもの、世界の全てが滑稽なのですから。さあ目を閉じてやりましょう。

 

 

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