安心行きの切符を買って不安行きの電車に乗りこむ覚書|記事が迷宮入り
ポエムだ!逃げろ!
なにも心配する必要がない生活は実に魅力的であるが、実際なにも心配する必要がない生活に落ち込んだとき、人は一体なにを本分として生きていけばいいのだろう。心配することは人の本分ではないかね。心配、不安、疑念、恐怖、人の行為はだいたいそういう類のものから始まるのではないかね。人が最初から無限の安心の中で暮らしていたならば、そこにもはや人を駆り立てるものはなにもなくて、そのためにまた、無限の安心の中にいられるのになあ。
つまりなんなんですか
無限の安心の中で暮らしたい
そもそもこの世界が迷宮みたいなものですし……
この世に私を駆り立てるものがないでもないが、私はそれに駆り立てられたとしても行き着く先がないのである。この世のどこかに出口のない迷宮(お徳用)があって、それに迷い込んだとしても、それは進む道があるだけマシだと思う。もっと言えば、入口があるだけマシだと思う。本当におっかないのは、入口もなければ進む道もないことである。それゆえに己は虚無の中を右往左往しているつもりで、実際は右往も左往もしておらず、その場で右を見たり左を見たり、いやそれさえも右を見たり左を見たりしているつもりでしかなく、死後硬直を済ませた身体のように1ミリたりとも動いていないのに、自分ではなにかをしているつもりになっている、そういうのがいちばんおっかない。
タダでなにかをしてくれる存在がいたらそれはもう悪魔だ
「必要な安心はこちらで全て用意するから、お前はもうなにもしなくてよい」と言ってくれる神ってなかなかいないものだな。いないですよね?いたらすいません。お詫びに信仰します。「必要な安心はこちらで全て用意するけど、お前はそれに相応しいなにかをしろ」か、「お前はもうなにもしなくていいけれど、その代わり必要な安心は全て自前で用意してね」の二択である。片方を受け持ってくれているだけでもありがたいと思うべきか。そうか。そうだよな。半分こは大事だもんな。
あと3年半は絶対今の職を失いたくないけど3年半経ったら地球が爆発してもいい
自分の中で金がおいくら万円貯まったら一区切り、ここが安心のライン、と決めている額があるのだけれど、最近ではそこにたどり着けるか不安になってきたし、それどころかおいくら万円貯めたところで私は安心を得られないのではないかと不安になってきた。安心を目指す動きですらいちいち私を不安にさせる。人間の安心は一体どこにあるんだ。そもそもそのおいくら万円まであと半分以上あるんですがそれは。日給労働者でもないのに、1日1日の労働が終わるたびに、「ああ、今日も無事においくら千円貰えるんだ」と胸をなで下ろすような労働者、そんなにいないと思います。
今日文字数少なくない?
休日はだいたいグロッキーなんだよ