珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

深く考えるごっこについての覚書|人の思考性能に理性と品性が追いついていない説もある

考えても考えなくてもだいたい負けるからどっちもクソ

「深く考えたら負け」という言葉が半ばスラング化している一方で、「深く考えたら勝ち」とは言わない。はて、何故だろう。ここで是非とも全人類に簡単なアンケートを取ってみたい。考えることと考えないこと、どちらが好きか。この記事を読んでいる諸賢はどうだろうか?考えること、考えないこと、どちらがお好みだろうか?次に述べる注意事項さえ守ってもらえればどちらに投票するも自由である。その注意事項というのが、考える或いは考えないという言葉に対し、これこれこうこうという余計な文言を決して付け足さないようにしていただきたいのだ。すなわち、「小難しく」考えるとか「いろいろ」考えるとか「先のことは」考えないとか「何も」考えないとか、たとえ無意識であってもそういう修飾語を勝手に付け足さないよう用心してほしい。さて、考えること、考えないこと、人間の好みはどちらにより傾くだろう。

 

ひっひっふー

魚類や両生類は、鳥類や哺乳類と比較すればとんでもない数の子(卵)を一度に生む。環境や生育上の問題で大人になれる確率が低い生物ほど一度に生まれる命の数が多い。多産多死もまた種が生き残るための工夫である。こんなことを、小学校だか中学校だかで習ったと思う。地球上に人間がうじゃうじゃいるのもひょっとしたら大体こんな具合なのかもしれない。ただの人間が深く考える人間になれる確率は非常に低い。だから世界は人間を 一度にたくさん・・・・・・・ 生んだんだろう。下手な人間も数撃ちゃ当たるってんで、さしあたり人間が暮らしやすそうな地球という星の上にただの人間をぽこじゃが生んでおけば、その中から深く考える人間が1人や2人出てきてもいいだろう。そんな感じで、今もまだ世界は出産の真っ只中である。

 

生むことについて考えたのでこんどは終わらせることについて考えよう

彼らからしてみれば、深く考えない人間の死体を積み上げて積み上げて積み上げて、最終的にその山のてっぺんが正しい答えの国に届きさえすればいいのだ。人間はたくさんたくさんいるんだから。そのためにたくさん生んだのだから。ある人間が深く考えず北へ進んで命を落としたのならば、次は深く考えず南へ進む人間が現れるまで気長に待てばよい。それで、その人間が深く考えず南へ進んで命を落としたのならば、次は深く考えず西へ進む人間が現れるまで気長に待てばよい。そうやって、深く考えない人間があっちへ行っては命を落としこっちへ行っては命を落としを繰り返している様子を、茶でも飲みながらのんびり眺めていればいい。彼らには時間が無限にあるのだから。やがていつかは深く考えず北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北北西に進んで成功する人間が現れるだろう。それは我々人類にとっては眩暈がするような時間であるが、彼らにとってはどうということもない一瞬に過ぎないのである。

 

人は誰から考えることを教わったのだろう

人間って深く考えるのあんまり向いてないのかな。ひょっとすると、真の意味での「深く考える」は世界とか神様とか宇宙とかなんかヤベーやつとかそういう方々の特権で、我々はせいぜいその真似事をして「深く考えるごっこをやるのが精一杯なのかもしれない。どっこい人間は愚かなので、とんでもない連中を眺めながら「深く考えるごっこ」をやり続けているうちに、いつの間にか真に深く考えているつもりになって、人間こそ真に深く考えることのできる唯一の存在であるなどと奢り高ぶって、我々は真に深く考えることのできる唯一の存在であるという自負を抱えたまま、ある日水辺でびっくりするくらいアホな理由で足を滑らせて、大事に抱えた自負の重さでそのまま溺死してしまうのだ。少し考えたらその水辺が危険であることは分かるはずなのに。重すぎる自負を手放しさえすれば命だけは助かったのに。人間は深く考えるのが得意なフレンズだったんじゃないんですか。

 

無謀に「勇敢」という名前をつけたらそれはもう勇敢なんだ人間の中ではな

人間はまだ、思考の浅瀬をちゃぷちゃぷ泳いでいるのがお似合いなのかもな。浮き輪も外れないうちから大海原へ飛び込むなんてやるもんじゃない。溺死はめちゃくちゃ苦しいと聞いたことがある。大体の死因はめちゃくちゃ苦しいと思うけど。それにしたって、思考の海で溺れ死ぬのはさぞかし苦しかろうよ。

 

 

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