珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

「ある、または、ない」星についての覚書|この星の上で「好き嫌いは人それぞれ」と「好き嫌いしちゃいけません」をかたっぽずつ履いたりするから転ぶんだ

本日の議題

回転寿司屋の寿司からはワサビがなくなったのにどうしてコンビニのサンドイッチからはカラシがなくならないのだろう

 

今の子供に「タッチパネルも注文レーンもなかった頃の回転寿司ってどうやって注文してたの?」って訊かれたらそれなりに凹むと思う

「ワサビがなくなった」と言うと語弊があるか。ええと、レーンの上を流れてくる寿司はサビ抜きが基本になったということだ。少なくとも、私が知っている4つのチェーン店ではそう。流れているのはサビ抜きの皿だけで、ワサビは別に用意してある。私が小さかった頃は、ファミリー向け回転寿司屋であってもサビ入りが基本だった。たまに「サビ抜き」と書かれた皿に乗ったワサビなしの寿司が流れてくることもあるが、それも私の記憶ではせいぜい握り全体の2割程度だったと思う。よってワサビなしの寿司が食いたければ、納豆巻きやいなりで腹を誤魔化しつつワサビなしの皿が流れてくるのを辛抱強く待つか、店員さんを呼んで直接オーダーするかの二択である。ちなみに、後者のほうが圧倒的に早い。虚しく通り過ぎるサビ入りの皿を見つめながら、子供心に考えていたことといえば、「どうしてそういうことするの?」であった。

 

個人的にカラシ入りサンドイッチの好きじゃないところはカラシの自己主張が激しすぎてどんなに美味しいサンドイッチを食べても最終的に「カラシの味がするサンドイッチだった」以外の感想が浮かばなくなるところ

コンビニで売ってるサンドイッチで、カラシを使用しているものには必ずと言っていいほどこんな注意書きがある。「カラシを使用しております」と。私はそれを見るたびに、「どうしてそういうことするの?」と思ってしまう。サンドイッチに、カラシ、要る?なくても美味しいというか、むしろない方が美味しくない?読者諸賢はどう?カラシ入ってるのと入ってないのどっちが好き?わざわざ「カラシを使用しております」などという注意書きをしているということは、過去に「カラシ入ってるなんて聞いてないんだけど」とか「カラシが入ってると知っていたら最初から買わなかった」とか「カラシが入ってると知らずに子供に食べさせてしまいました」とか、そういうクレームが少なくない件数寄せられたってことでしょう。サンドイッチにおけるカラシ使用の是非に関して、「どっちでもいい」と「入れないでほしい」で8割以上占めてるんじゃないかと私は見ている。それでもなおサンドイッチにカラシを入れなければならない理由。確 からし・・・ いことはなにもわからない。だ から・・ かたない。

 

教室をお通夜にするサラダ

ついでなのでこの話もしておこう。小学生の頃の給食に、レタスやきゅうりやにんじんやハムに八朔パイナップルを加えてやたら酸っぱくてやたら水っぽいシャバシャバのフレンチドレッシングで和えたサラダがしょっちゅう出ていたが、そのたびに「どうしてそういうことするの?」と思っていた。あれのせいで多くの同輩が貴重な昼休みを失った。あるときの担任は「実を言うと先生もあんまり好きじゃないのでどうしても食べられない人は片付けていいです」ど言って事実上のギブアップ宣言をしていた。可哀想な生徒。可哀想な先生。可哀想な野菜。可哀想なハム。可哀想なドレッシング。可哀想な八朔。可哀想なパイナップル。誰も幸せにならない。誰も報われない。我々は互いが、互いと、考えうる限りもっとも最悪な形で出会ってしまった。

 

そんな環境でも人間は個性の尊重と普遍性の尊重とを立派に両立させようとがんばっている

物事に、「ある」と「ない」が同時には存在し得ないことをソクラテス(プラトン)がよく言っていたと思う。どの本でも大概言っているが、特によく言っていたのはなんだったかなあ、『テアイテトス』だったかなあ。何事も「あり、かつ、ない」という状態にはならない。我々の世界には、「ワサビがあり、かつ、ない」という寿司は存在できない。私はここでいつものように頓智や言葉遊びやおふざけをしたいわけではなくて、今回ばかりは、「ワサビが入っており、かつ、入っていない」寿司のことを真面目に考えるのである。寿司は二分される。ワサビが入っている寿司と、入っていない寿司に。寿司が二分されると、我々人間も、二分された寿司に追従して海が割れるように二分される。我々が対立の星に生まれてしまったことは瞭然である。我々は「ある」星にでもなく、「ない」星にでもなく、「あり、かつ、ない」星にでもなく、「ある、または、ない」星に生まれてしまったのである。「ある、または、ない」という対立の星に生まれてしまった人間が、その本分に従って立派に対立を果たしている。こうでも考えなければ、あちらこちらと尽きることのない人間の対立なんてもの、バカバカしくて見てらんないよ。我々の世界がごっそり滅びたあとは、「あり、かつ、ない」星が生まれるのかもしれないね。そこでは寿司にワサビが入っていてほしい人と、入っていてほしくない人が、 おなじひとつの寿司・・・・・・・・・ を食べて、ニッコリできるのかもしれないね。

 

 

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