珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

思索の海から零れ落ちたものたちの覚書~その5~|誰だこんな恥ずかしいタイトル考えたやつ

しゃぶしゃぶ

没文章を墓に入れる前にサッと風呂に入れるような感じの記事です

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ウーン。その6からシリーズタイトル変えよう。そんでしばらくしたらこっそりその5までのタイトルも修正しておこう。この決意は私の心の中に留めておいて、誰にも言わないようにしておこう。誰にも言わなけりゃ、過去記事をちょっと弄ったところでバレることもあるまい。

 

コーラン・上(岩波文庫)を初めて読んだ感想ですが

想像してたよりもずっと寛大というか太っ腹なかんじでびっくりしたけど世界から争いがなくならない理由もよくわかりました(アラアラ)

たとえば甲国の義務教育の教科書に「乙国の人間はごくごく一部の善良な国民を除けばだいたいボコボコにしていいよ、でもごくごく一部の善良な国民だって結局のところ乙国の国民に違いないわけだからやっぱりボコボコにしていいよ」って書いてあったら甲国と乙国の争いがなくなるわけないでしょ そんな感じだった

 

人間の血液の中にひとさじの牛乳が流れていたならば。いや待て、念の為に、豆乳でも可と書き添えておきましょうか。人間の血液の中にひとさじの牛乳(豆乳でも可)が流れていたならば。ウーン。人間の血液の中にひとさじの牛乳(豆乳ライスミルクアーモンドミルクココナッツミルクその他の動物性ミルク植物性ミルクそれらに準ずるものでも可)が流れていたならば。ウーン。

多方面に配慮しすぎて自分がどこへ向かっているのか分からなくなったというよい例です。配慮は人間の性質の中でもなかなかよくできたものだと思います。私、人間はあんまり好きじゃないんですけど、配慮という性質についてはわりかし気に入っています。ところで、人間はこの先一体どこまで配慮に耐えうるのでしょうか。ここ100年程度を振り返ってみていただくとよく分かると思うのですが、配慮は、明らかに人間の中で肥大しています。それが正しく肥大しているのならなにも言うことはないし、正しいやり方で肥大した配慮というのは実に素晴らしく尊いものだと思っています。うっかり人間を好きになれるくらいには。そこには思いやりと尊重の精神があります。ただしそこは人間、きっといつかどこかしらでやり方を誤るんじゃなかろうかと、そのとき我々が自分の内の肥大しすぎた配慮に圧し潰されて死んでしまうのではなかろうかと、危惧しているわけです。我々は今、正しい配慮の仕方を求める過程の途中で、川へ足を滑らせた子どもが闇雲に水の中を掻くように、模索しているのです。いたずらに、懸命に、未熟な配慮ばかりふくらかしながら、あわよくばそこから正しい配慮のやり方が見い出せぬものかと、「ええいままよ」の精神でもがいているのです。そこで正しい配慮の仕方が見つかれば、先ほど申し上げたとおり、なにも言うことはないのです。だけどもし、もし正しい配慮の仕方が見つからなかったら?我々はささやかな一挙手一投足のたびに全人類への配慮を求められて、息を吸っては配慮が足りぬ、息を吐いては配慮が足りぬと言われ、身動きの取れない、息すらできない、生きながら死んでいる銅像と化すでしょうなあ。

 

謎の声「アァウ……アァ……」

わたし「(赤ちゃんだ……)」

謎の声「チャ~」

わたし「(たむけんだ……)」

そう……

 

生きがいなんてのは生きるための口実に過ぎない。そいで、生きることは正しく習慣だ。もしくは習慣への依存だ。私は臨機応変な生き物であることを辞したいのかもしれない。

こいつどんだけ生きがいの話するんだよ そりゃ死ぬまでだよ 生きてるから生きがいの話をするんだよ 死んだら生きがいの話もできないんだよ

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なにかをしていなければネガティブなことばかり考えてしまうタイプの人間って人生ハードモードすぎませんか!?なにかをしていないといけないのにそんなに四六時中なにかをしているわけにもいかないでしょう!?

息してるじゃん(小学生並感)

 

いつも同じ家の同じ車の下で香箱座りをしているねこが、どこかを一心に見ていた。ねこからすれば迷惑極まりないだろうが、私としてはねこに気づいてもらえないのはとても悲しいので、わざとらしく足音を立ててすぐ傍を通ったのだが、それでもそのねこはこちらに見向きもせず、どこかを見ていた。あのねこは一体何を見ていたのだろう。

猫に逃げられるのは悲しいが、猫に無視されるのはもっと悲しい。無視されるくらいなら、全身を使ってめいっぱい威嚇されたのちに逃げられたい。野良猫を見つけて、嬉しくなって、さりげなく近くを通って、案の定逃げられて、逃げられたにも関わらず、「ウム」と深く頷きひとり満足している時の充実感、アレは一体なんなんだろう。猫ちゃんかわいそう。猫ちゃんかわいいぞう。

 

労働時間は心を無にしてナンボだと思っているので、生きている時間にカウントしていない。もしもこのようにして、つらい労働時間が生きている時間にカウントされなかったら……我々の平均寿命はいかほどのものでしょうか。楽しい労働時間はカウントしていいんですよ。もちろん。

生は苦しみであるからして(断言)つらい時間全てを生きている時間にカウントしなかったら我々のことをもはや「生き物」と呼べないのでは むしろ「生き物」なんてひとつも存在しないのでは

 

 

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