珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

生きる覚書|生まれたから生きてる

立川のアパートみたいなかんじ

「一体なにが楽しくて生きてるんだ」という、ある意味では生きとし生けるものに課される究極の問いかけであり、ある意味ではどこまで行っても答えのない虚無であり、ある意味では真理であり、ある意味では暴言であり、ある意味ではこの世に真の意味で楽しいものなんかなにもないという事実の遠まわしな暴露であり、ある意味ではその生き物がそれを楽しいと思えばなんでも楽しいという解釈の問題であり、ある意味では同情であり、ある意味では嘲笑であり、要するにある意味ではなんでもあるような疑問がある。世の中にこれほど、神と仏と天使と悪魔をこの中へいっぺんに住まわせることのできる言葉があるだろうか、いやないね!聖なるものに仕えることこそこの世の楽しみであると誰かは言う。この世に楽しみなど存在しないからさっさと極楽浄土へ行くほうが賢明であると誰かは言う。日常の小さな出来事の中にも必ず楽しみはありますよと誰かは言う。他人を蹴落として得る楽しみこそ至上の蜜であると誰かは言う。

 

神を絞め落とす日

「一体なにが楽しくて生きてるんだ」という問いについて真夜中にひとりで考え始めると、それまで自分にとって楽しいと思っていたことが突然その色を失うことがあるのでやめよう。せめておてんとさまが見てる中、おいしい飲み物と茶菓子を用意して、誰かと一緒に考えるようにしよう。人間がたったひとりで前述の四者と戦うには分が悪すぎる。人間同士での戦いにおいても1対4は非常に分が悪いでしょう。相手が人ならざるものであるのなら言わずもがなである。せめて、あと誰かひとりいなければ。そうすれば2対4、ひとりあたま2つずつ仕留めればなんとかなる。片方が対象を羽交い締めにして、その間にもう片方がやるんだ。いけるいける。がんばれがんばれ。

 

め、めんどくさ~

残念なことに、世の中には、というかこの社会の中には、私じゃなきゃ成し遂げられないような物事はひとつも存在しないので、ある日私が忽然といなくなってもさしたる問題はないのである。そう、この社会の中にはない。けれども、世の中にはなくもないかもしれない。だから少し表現を訂正した。そのなくもないかもしれない物事とは、「私を楽しませる」ことである。より正確に表すなら、「私がなにかを楽しめる状態になるよう前もって私のことを整えておく」ことである。私を楽しませてくれるものなら、私の外にだってごまんとある。けれども私が楽しいと思うためには、私がそれらを楽しいと思えるような状態にあることが必須である。私がそれらを楽しいと思えるような状態にすることは、私にしか成し得ない仕事である。

 

生きるとは一体……うごごご

仮にこの世の全てについて楽しいと感じられる人がいたならば、その人はこの世で最も幸福にして、最も不幸な生き物だ。まあそんな人間がいたとしても、生後間もなく死んでしまうことは明らかである。なにせ前提が「この世の全てについて楽しいと感じられる人」なのだから、飢えや渇きや暑さ寒さ、呼吸を止める苦しみや頭をぶつける痛みですら当人にとっては愉快なことこの上なく、その赤子は無数の楽しみに囲まれて呆気なく死んでいくだろう。彼もしくは彼女はその死の瞬間でさえも楽しみの中にいるだろう。まったく、最も幸福にして、最も不幸なことよなあ。

 

彼らとて裕福に生まれたくて生まれたわけじゃなかろうし私ごときには彼らを恨む権利も妬む権利もない

苦行したいタイプの人間に生まれたかったなって、ちょっと思います。苦行せざるを得ないタイプじゃなくて、あくまで自発的に苦行したいタイプの。私は自発的に苦行するにはあまりにも煩悩に塗れているので、ある程度煩悩を拭き取ってからじゃないと苦行なんかできそうにありません。これあんまり言うと怒られそうなんですけど、昔の人で、世の中を憂い、自発的に苦行に臨み、その結果世界的にその名が知れ渡ったような尊い方々って、だいたいメチャクチャ裕福な家に生まれてるんですよね。そりゃそうか。生まれた時から苦行の中にいるような人間は、わざわざ自発的に苦行を選択する必要もないもんな。だいいち、メチャクチャ裕福な家の人間でもなければ歴史的に名前が残ったりしないでしょうよ。でも、自発的に1日1個の粗末なパンで過ごしている人間と、強制的に1日1個の粗末なパンで過ごさざるを得ない人間って、その点だけ見ればやってることは一緒なんですよ。

 

今日も今日とてパンがうまい

それで十分なんじゃない?

 

 

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