パンと哲学についての覚書|ものすごく抽象的な話をしています
魚(芋)
先日、無性にタルタルフィッシュバーガーが食べたくてパン屋に行って、会計へ行くすんでのところで自分が手に握っている(※)パンがソースコロッケバーガーだということに気づいた。あぶねえ。店員さんが値札と違う場所にパンを置いてしまったのかそれとも置かれたパンに違う値札をつけてしまったのか、要はタルタルフィッシュバーガーの値札のある場所にソースコロッケバーガーが、ソースコロッケバーガーの値札のある場所にタルタルフィッシュバーガーが置いてあったというわけだ。まあとにかく、危なかった。大好物のタルタルフィッシュバーガーを買ってきたつもりで齧り付いて中からホクホクの芋が出てきたら、膝から崩れ落ちただろうな。ぱっと見全然分からないから。違いが。よくよく見るとタルタルフィッシュバーガーの方が中の揚げ物がやや細長いかなってくらいで。魚のつもりで食ったら芋だった人、芋のつもりで食ったら魚だった人、いたかな。1人くらいはいただろうな。
※そこのパン屋は全てのパンが個包装された状態で並んでいる。決して剥き身のパンを素手で握っていたわけではない。
ウーン、人
タルタルフィッシュバーガーの中から芋が出てきても決して動じない人間になりたいなあ。ソースコロッケバーガーの中から魚が出てきても鷹揚に構えていられる人間になりたいなあ。いっそバンズの中から何も出てこなくたって、それはそれでいいんじゃないと思えるくらい泰然自若として騒がぬ人間になりたいなあ。なに言ってんだって感じですけど、こうしてパンの中身にこだわっているうちは自分もまだまだ半人前だなあって思いますね。とにかく、それがパンであれなんであれ、外身はもとより中身についてさえもアレコレこだわるのをやめたいってことです。「人は外見じゃない、中身だ」って言葉がありますけど、その誰かが胸張って言うところの中身についてさえ、アレコレこだわりたくないんですよね。「人は外見じゃない、中身でもない」って具合に。人は人であること以外になんら基準を持たず、外見ではなく、中身でもなく、名でもなく、体でもなく、人以上でも以下でもなく、あの子もなければこの子もなくて、どこまで行っても人は人……
パンパカパーン
「Q.パンはパンでも食べられるパンはパーンだ A.パン」。理想のパン、この一文に尽きる。まず、パンはパン。パンは食べられる。よって食べられるパンは、パン。だから、問うまでもなくパンはパン。自ずと、答えもパン。そこにタルタルフィッシュがどうとか、ソースコロッケがどうとか、介入する余地がないくらいに、パンとして完成されたパン。自明のパン。純度百パーセントのパン。完全なパン。抽出されたパン。抽象されたパン。ただのパンでしかないパン。ただのパンでしか有り得ないパン。ただパンであるパン。パンダが入ってるって?パンダは可愛いので入ってても大丈夫です。
抽象的なパンは概念の味しかしません
だいぶ小麦粉(小麦粉のことです)がキマってきました。ぼんやりと思い浮かべるは抽象的な生活への憧れ。シンプルな生活への憧れではない。抽象的な生活への憧れだ。実際、現代社会の中に生きていたら、具体的なものをあれもこれも排除して生活するなんてできっこないですから。あっちにも、こっちにも、具体的なものばかりで、具体的なものはただでさえ具体的なのに、その上さらに、人間から具体的のお墨付きを貰おうとして、我々の後ろをチョコチョコ付いてくるのがなんとも煩わしい。具体的なものたち、彼らは彼ら自身が既に具体的であるという現状に満足せず、人間の手によって更なる具体性を獲ようという野望を抱いて、我々の背後にぞろぞろと列を成している。あ、今日キメた小麦粉ですか?例のタルタルフィッシュバーガーですよ!商品が店頭に並んで間もない頃に買ったからまだサクサクでしたよ!帰りのバスを1本遅らせてまでちょうどいい時間を狙った甲斐がありました!具体的なパンのよいところはメチャクチャ美味しいところですね!
どうしてこのパン屋はこれほど私に考えることを強いるのか
後日、同じパン屋でチョコレートフランスパンを買ったらレシートに「メロンパン」と印字されていた。哲学の予感。