火に始まり水に終わる覚書|火曜日と水曜日を混ぜてお湯曜日にしたら平日が1日少なくて済むぞい
世知辛いのじゃー
駐車場と道路を挟んで向かいのマンションで消防車が出動する騒ぎが起こっている最中でも風呂には入らねばならないこの現実
地震雷火事お風呂
たとえ近所が燃えていても風呂には入らねばならない。なぜなら、もう間もなく労働が控えているからである。風呂に入らず出勤するわけにもいかない。そう、たとえ近所が燃えていても仕事には行かねばならない。ひでえ世の中だ。おっかねえおっかねえと思いながらいつも以上にカラスの行水を決め込んだ。大急ぎで風呂から上がったあと、カーテンを捲ってしばらく様子を眺めていたが、消防車と消防設備のない赤い車両が1台ずつ停車していてそこから隊員さんがワラワラ現れはするものの、放水している様子が一切なく、救急車が来る気配もなく、追加の消防車もなく、一体なにがあったのかは分からなかったが、燃えてないならそれに越したこともない。その後消防車は30分程度で姿を消した。そういえばあのマンション、決まって年に1、2回は消防車が来る気がするぞ。ほんと勘弁してくれよな。
クソコラグランプリ
それにしても、すぐそこで火事が起こっているかもしれないにも関わらず、車や自転車や歩行者が普通にバンバン通り過ぎていくのはなんとも落ち着かない光景である。例のマンションのすぐ目の前の小道を通ってくる車もいる。明らかになにかが起こっているにも関わらず一瞥さえしない自転車もいる。スマホをいじりながら歩いている歩行者もいる。日常の景色の中で、消防車両や消防隊員の存在が浮いているとも取れるし、非日常な景色の中で、普通の車や普通の自転車や普通の歩行者の存在が浮いているとも取れる。果たして浮いているのはどちらだろうか。いずれにせよ、全然違う景色を強引に継ぎ合わせたコラージュのような光景が広がっていて、薄気味悪かった。
野次ウマ娘 デンジャラスダービー
なにかを「浮いている」と呼ぶからには、私は元々の平坦な光景をあらかじめ知っておかねばならない。たとえば、消防車両も消防隊員もいない、静かな、日本全国どこにでもある住宅街。たとえば、交通規制で車がつっかえていて、近所の野次馬が集まって、道行く人々が皆なんだなんだと足を止めて遠巻きに覗き込むような火災現場。後者についてはフィクションの中でしか見たことがないが、ドラマやアニメや漫画等で描かれるステレオタイプな火災現場といえば、そういう感じだろう。現実で火事を見物しに来る人間があんなにワラワラいたら、消防の人たちからすれば堪ったものではないのだろうが。
まん延防止が解除された翌日の夜は路上に転がっている人間を5人見た
こんなモノクロ写真を見たことがある。飢饉の真っ最中にある国で、2人の男性が栄養失調で歩道に倒れており、身なりのよい男性と女性がそのすぐそばを歩いているというもの。平時で考えれば、その写真の中で浮いているのは明らかに倒れている男性2人であろう。しかしこの国が飢饉に襲われていることを考えれば、浮いているのは却って通行人の2人かもしれない。浮いているか、そうでないかなんて、そんなもんだ。それに、この写真に「酔っ払って路上で寝ている男たちとそれを呆れ顔で眺める通行人」というキャプションが添えてあったならば、私はそれを疑いもせずに信じ込んだだろう。古い写真であるから、倒れている男性2人の健康状態なんてぱっと見分かりゃしない。酔っ払ってそのへんで寝ている人間なんて、私の住んでいる地域の繁華街にもゴロゴロ転がっている。私も含め、みな無関心でその横を通り過ぎていく。酷な話だが、もし彼らの中に酔っぱらいではなく本当に死にかけている人間がいたとしても、我々はそう簡単には気づけないだろう。
気づいてる 気づいているのさ 気づいてる 気づいてる
誰々が何々の中で浮いているとは言うが、誰々が何々の中で沈んでいるとは言わない。こはいかに。浮いている人間がいるなら、沈んでいる人間がいてもいいんじゃないの。誰々が沈んでいると言う代わりに、誰々は目立たないとか、誰々は影が薄いとか、誰々は空気とか、そういう言葉を使う。我々はしばしば、「目立たない」という言葉を用いることそれ自体によってまさに彼が目立たされているということに気づかない。「目立たない」と言われる人は、より気づかれている。目立たない人は、目立ちもしないが目立たなくもない人よりもずっとずっと、気づかれているのだ。なんだかおっかねえなあ。同様に、「影が薄い」と言われる人は、影が濃くも薄くもない人よりずっとずっと気づかれているし、「空気」と言われる人は、固体であるか液体であるかもしくはその両方である人よりずっとずっと気づかれている。
ただしぷかぷか浮いている人間も場合によっては既に手遅れだったりするから適度に浮いたり沈んだりしよう
浮いている人間と沈んでいる人間ってどっちが目立つんだろう。浮いている人間は浮いていること自体の故に目立つのであるが、沈んでいる人間は、先程も言ったとおり、周りから「アイツって沈んでるよな(?)」と言われるが故に、却って目立つのである。市民プールでぷかぷか浮いている子どもとごぼごぼ沈んでいる子どもだったら、どうだろう。プールで浮いている人間なんて大勢いるのだ。一方で沈んでいる人間はそういないし、いたら大変だ。大騒ぎだ。でも、沈んでいる子どもって、あんまり気づかれないかもしれない。みんなのんきにぷかぷか浮いていて、たったひとりで、ごぼごぼ沈んで、誰にも気づかれないかもしれない。気づかれた時には、もう手遅れかもしれない。そう考えると、浮いていると揶揄されようが、沈んで沈んで手遅れになるまで気づかれないよりは、幾分かマシなんじゃないだろうか。