珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

おかしいと思う覚書|こんなの絶対、いや多分、恐らく、だいたい、75%くらいはおかしいよ

着るトリケラトプス

おかしいことを行為すると周りからおかしいと思われる、そのために、私はおかしいことの行為を自制することができる。周りってのは、神も含めていいです。果たして神が人間の行為に逐一なにかを思ったり思わなかったりするのかは分かりませんが。もしも私の周りに、いや世界に、天界とか地獄とか宇宙とかを含めたあらゆる私の周りに、「おかしいと思う」ことが可能な生き物がいなかったら、なんでもやってしまうだろう。たとえば私の周りにネコチャンしかいなかったら、夏場は真っ裸でうろついたりするかもしれないし、冬場は着る毛布のまま出歩いたりするかもしれない。もしも私の周りのネコチャンたちが、私が知らないだけで、「なんやこいつ人間のくせに白昼堂々真っ裸でウロウロしておかしいやつやな」と思う能力を立派に備えており、私のいないところでネコチャン同士ヒソヒソ噂話をしていたとしたら、それに気づいた時点で私は羞恥のあまり真っ裸のまま死んでしまうだろう。

評価数317の星4.4ってすごくない?欲しくなってきたな

 

喜劇

「おかしいと思う」能力のある存在が周りにあってはじめて、人は理性的なものを発揮させるんやなって。それもまたおかしい。我々が今生きている世界は、先人たちが各々の持つ異なった「おかしいと思う」をぶつけ合い、ルールを破って激しくバトルした結果の上に建っている。それもまたおかしい。いくら賛同者追従者だけでガチガチに固めた閉鎖的な集団であっても、時間が経てばやがて内部から「おかしいと思う」という声を上げ始める存在が出てくるだろう。それもまたおかしい。自分から見た他人は、だいたいおかしいようにできている。それもまたおかしい。他人から見た自分は、だいたいおかしいようにできている。それもまたおかしい。

 

現実世界においてデウス・エクス・マキナが何故起こらないのか

初めての人類が誕生してからこれまでずっと、地球上には常にたった1人の人類しかおらず、死んだ瞬間次の1人にバトンタッチされるような形式でやってきたならば、人の理性は全く開花しなかったのかしら。そんなあまりにも非ィ現実的な話をしてもどうしようもないかしら。神がアダムを造ったその時点で至極満足していたら、どうなったかしら。「初代アダムがそろそろ耐用年数超えそうだ、2代目アダムを作っとかんと」的な感じで。それで、歴代アダムがn代目を迎えたあたりで、相も変わらず素っ裸でエデンの園をウロウロしているアダムを眺めながら、「なんかこれちょっと違うんじゃね?」って神も気づくだろう。神は最初から単一で万能な存在だから、気づくのが遅れたんだな。人は単一では万能どころか一能にもなれやしないことに。それで、試しにもうひとり造ってみたけど、ここで彼は再びウッカリを犯すことになるのだ。つまり、人は単一ではどうしようもないが、複数集まるとこれまた別の意味で、より悪い意味でどうしようもないのだと。もうひとりを慌てて削除してももう遅い。彼は理性を知ってしまった。これまで物も言わず人形のようにウロウロしていたアダムが、神に向かってやいのやいのと要求を始めるぞ。サア大変。大変。

 

単に「おかしい」のではなく「おかしい と思う・・・ 」ことがここでは大事なんだ

他人と自分は違うということ、他人は自分とは違った感覚を持っているということ、他人には受け入れられるものが自分には受け入れられなかったりすること、逆も然りであること、それに対する理解や許容、これらは一体何歳頃に人の中で確立されるんでしょう。まあそれはどうでもいいとして、我々は通常、他人に対して抱く「おかしいと思う」を上手いことコントロールして生きているわけです。人が「おかしいと思う」たびに感情やら手榴弾やらを爆発させていたら、地球は今頃焦土と化しています。日常で他人に対して「なんやこいつ……」と感じた回数をカウントする実験をしたら、なかなか愉快なんじゃないでしょうか。相手が知った人間だろうが知らない人間だろうが、ほんの1ミリでも「なんやこいつ……」と思ったらカウントを1増やす。実験終了後、回数計に表示された数を眺めながら、世の中は「おかしいと思う」もので溢れているんだなあと、自分と他人はまるきり違う生き物なのだと、地球上に何十億といるうちの大多数の人間がそれを受け入れてナントカやっているのはすごいことなんだと、一方でいくらかの人間はそれを受け入れられず感情や手榴弾をあちこちで爆発させまくっているのだと、改めて実感できればそれでいいです。

 

平たく言えば日常生活の中で「どいつもこいつも」と感じる機会が増えると危ないです

ところで、他人に対する「おかしいと思う」が自分の許容量をオーバーしてきたら、それはちょっとヤバイですね。溢れた分が純粋な敵意、もしくはそれに準ずるものに変換されます。時間が経てばそれは伝染して、溢れていない分までもそのような性質を帯びます。あいつもおかしい、こいつもおかしい、そいつもおかしい、アレもコレもソレもみんなみんなおかしいおかしいおかしいおかしい……。こういった感情の下では、自分と他人との境目が曖昧になってくるのではないでしょうか。自分と他人は違うという当たり前の認識がぼやけて、他人を自分と同化させようという強い力、「おかしいと思う」を一切許そうとしない強大な力が無意識に働き始めているのではないでしょうか。自分の「おかしいと思う」の基準こそ絶対にして普遍にして真理であるという思い込みはおっかないものです。自分の「正しいと思う」の基準こそ絶対にして普遍にして真理であるという思い込みはなお一層おっかないかもしれませんが。他人がおかしいのはある意味で当たり前なのにね。こういう状況に陥った人間にしてやれる、非医療的な処置には一体なにがあるのでしょうか?

 

まあ要するに

自分ひとつのことも分からないうちから「自分と他人の違いについて」「自分と他人は違うということについて」「他人に対しての『おかしいと思う』 それ自体・・・・ は人が抱く感情としては至って健全でありそれを不健全にする要因はまた別のところにあることについて」等々分かっておかなければいけないのは大変だなあと思いました。

 

 

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