そこそこの底についての覚書|人類の不満と欲望と退屈は尽きない
とある怠惰なフリーターの所感(接客業・夜勤)
みんな「暇すぎて逆に辛い」って言うけど「暇すぎて逆に辛い」のって逆に楽じゃないですか?
逆転が逆転する
暇すぎても辛いといい、忙しすぎても辛いという。人間は本当にワガママだなあ。じゃあ暇でもなく忙しくもない最適な労働量って一体どれくらいなんだ。ワカラン。我々は労働の合間に「今日は暇ですね」「今日は忙しいですね」などと感想を漏らしたりするが、「今日は暇でもなく、かといって忙しくもないですね」とはなかなか言わない。言う職場があったらごめんなさい。過度に不足した労働量や、過度に超過(?)した労働量について、我々は敏感である。しかし過度に最適な労働量について、我々はあまりにも鈍感である。過度に最適ってなんだよ。まあつまり、「恐ろしいくらいに最適」「あまりにも最適すぎて怖い」ってことです。答えになってるかな?
不満腹
過度に不足した労働量の中で働いているとき、「暇すぎて辛い」「時間が経たない」という不満を抱く。過度に超過した労働量の中で働いているとき、「忙しすぎて辛い」「時間が足りない」という不満を抱く。過度に最適な労働量の中で働いているとき、それでも我々はある種の不満を抱く。「文句がつけられない不満」である。暇でもないし、忙しくもない、時間はそこそこに過ぎてゆき、体力はそこそこに消費されそこそこに残存しており、気力もそこそこに消費されそこそこに残存している。そこにはただそこそこだけがあって、そこそこで満たされていて、そこそこで窒息しそうな我々は、そこそこで窒息しそうであるがゆえに、ある種の不満を抱えてはいるが、それを声として発することができない。そこそこで満たされている間、我々は「暇~~~!!!時間が!!経たない!!!さっきからまだ30分しか経ってない!!!することがない!!!帰りたい!!!帰ってゲームしたい!!!」という声を上げることができない。また、「忙しい!!死ぬ!!労働にころころされる!!!時間が足りない!!人手も足りない!!猫の手も借りたい!!!きつい!!帰りたい!!!帰ってゲームしたい!!!」という声を上げることもできない。何故なら我々はそこそこで満たされているからである。そこそこの底にぶくぶく沈んで、「ごぼごぼ(そこそこ)……」という音を発するので精一杯なのである。
時短営業は夜勤フリーターに厳しい 全国の夜勤フリーターに幸あれ
クリスマスから年末年始は本当に地獄であった。夜勤メンバーの3/5が新人というなかなかにハードな状況の中で、よくもまああの忙しさを乗り切ったなと、今思えば感心するくらいだ。研修中の3人が仕事できる人たちばかりで本当に助かった。あれはまごうことなき「忙しすぎて辛い」日々であった。本格的に忙しかったのは1月5日くらいまでで、それなりに忙しかったのは、成人の日くらいまでかな?11日から18日くらいまでの1週間は、まるで記憶にない。そう、ぜんぜん記憶にない。なぜならその期間、我々はそこそこで満たされていたからである。暇ではないが、忙しくもなかった。はず。多分。何から何までそこそこだったと思う。で、それを過ぎた辺りから世の中に暗雲が立ち込めてきて、みんなが言うところの「暇すぎて逆に辛い」日々に逆戻りした。「忙しすぎて辛い」と「そこそこすぎて記憶にない」と「暇すぎて逆に辛い」の間を激しく反復横跳びしながらなんやかんやでこれまでどおり働けているのは、このご時世にあってはかなり恵まれているのではなかろうか。
私は労働を賃金とストレスという2つのものさしでしか測ってないからね
ここで最初の話に戻ろう。なんだか最近みんなげっそりしている。げっそりというか、げんなりというか。要は、客が急に減って、マジでやることがなく、全く時間が過ぎないため、却ってしんどい思いをしているのである。それで、「暇すぎて逆に辛い」「忙しい方がまだマシ」などとぼやきながら、永遠とも思われる勤務時間に身を投じているのである。私?私もそりゃあ、待てど暮らせど時間が経たないのは辛いけど、それでも忙しいよりずっと楽で、ずっとマシだと思っている。何故ならストレスの質が異なるから。忙しいときのストレスはまこと毒にしかならないストレスだが、暇すぎて辛いときのストレスは毒にも薬にもならないストレスである。前者が「これこれこうこうのストレス」「混ぜものをされたストレス」という類なら、後者は「ストレスという概念そのもの」「不純物ゼロのストレス」というべきか。ナニソレ?とにかく、毒と毒にも薬にもならないものなら、後者のほうがいい。
ここで一言
過去の記事で「暇より忙しい方がマシ」的なことを言っていたらどうしようかと少しだけ心配になる 過去の私は現在の私とは別人なので特に問題はない