珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

正岡子規についての覚書|最終的に「これは是非とも高浜虚子と河東碧梧桐も読まねば」という気分になったのでこれには身内想いの子規もニッコリ

正岡好き

正岡子規の随筆を読んでいると、時折アッと「落ちる」部分がある。これが正岡子規の随筆が好きな理由でもあるのだが。昔の人の書く文章であるから、我々現代人からすれば、書いた本人の意図がどうであれ、どうしても格式張っているというか、むつかしいというか、悪く言えば堅苦しく感じる部分があるのは否めない。といっても子規は昔の人の中では最近の人であるから、読みづらいということはない。まあそんな具合で、深い渋みの効いた緑茶のような語り口(書き口?)の中に、突然フッと「落ちる」ところが現れる。その落ち方がいちいち私のツボを突くというか、思わず声を出して笑ってしまうところも少なくない、というわけだ。エエイ黙って聞いておれば先程から貴様は落ちる落ちると言うておるがつまりどういうことだってばよという方向けに説明すると、私がここで言っている「落ちる」とは、一言で表すなら、「あっ今この人真顔でボケたな」ということである。

 

正岡月

それだけでは伝わらないと思うので、少しばかり引用しよう。とはいっても、突然の「落ち」にフフッと笑うためは当然前々からの文章を連続して読んでいることが前提なので、一部分だけ引用したところで私のツボに入った理由が上手く伝わるとも思われないし、下手すると私の読解力不足が露呈する結果に終わるかもしれないが、一応やってみることにする。急いで写したので多少の誤字脱字は勘弁願いたい。岩波文庫版より。

 

句合の題がまわって来た。先ず一番に月という題がある。凡そ四季の題で月というほど広い漠然とした題はない。花や雪の比ではない。今夜は少し熱があるかして苦しいようだから、横に寝て句合の句を作ろうと思うて蒲団を被って験温器を脇に挟みながら月の句を考え始めた。先ず最初に胸に浮んだ趣向は、月明の夜に森に沿うた小道の、一方は野が開いて居るという処を歩行いて居る処であった。写実写実と思うて居るのでこんな平凡な場所を描き出したのであろう。けれども景色があまり広いと写実に遠ざかるから今少し狭く細かく写そうと思うて、月が木葉がくれにちらちらして居る所、即ち作者は森の影を踏んでちらちらする葉隠れの月を右に見ながら、いくら往ても往ても月は葉隠れになったままであって自分の顔をかっと照らす事はない、という、こういう趣を考えたが、時間が長過ぎて句にならぬ、そこで急に我家へ帰った。

 

解説:「月」をテーマにした句を作るために頭の中で森に沿った小道を歩いていたが、句にならぬということで”帰宅”。「そこで急に我家へ帰った」という一見特になんでもないような一文ながら、「そこで」「急に」「我」「家へ帰った」の並びの中にスピード感や勢いを感じる。とりわけ「急に」というのがいい味を出している。私としては、それまで月を眺めながら神妙に森を散策していたが「帰宅する」と心の中で思ったならその時スデに行動は終わっている子規の姿を思い描かざるを得ず、その緩急がなんとなくおかしくて、笑うに至る。

一言:急に帰宅するの面白い 私もいつか急に帰宅しよう

 

月夜の沖遠く外国船がかかって居る景色をちょっと考えたが、また桟橋にもどった。桟橋の句が落ち着かぬのは余り淡白過ぎるのだから、今少し彩色を入れたら善かろうと思うて、男と女と桟橋で別を惜しむ処を考えた。女は男にくっついて立って居る。黙って一語を発せぬ胸の内には言うに言われぬ苦みがあるらしい。男も悄然として居る。人知れず力を入れて手を握った。直に艀舟に乗った。女は身動きもせず立って居た。こんな聯想が起こったので、「桟橋に別れを惜む夫婦かな」とやったが、月がなかった。

解説:引き続き「月」をテーマにした句を作るためアレコレ考えた末に一句できたが、肝心の月が欠けていた。月見バーガーの月見抜きみたいな感じ。これだけ情感たっぷりの描写を連ねておいて「月がなかった」の一言で終わらせるのが、オチとして完璧すぎて笑ってしまった。

一言:草

 

正岡粋

一例目は狙っているかと言われると正直微妙かもしれないが、私は大層ツボに入った。実際に森を歩いていたわけではなく脳内で散策していたのだから、「そこで我急に家に帰った」とせずとも一旦現実に戻って「そこで我趣向を我が家に移した」とか「そこで我自宅の光景を思い描いた」とかそんな風に書いてもよかったのだ。それを「そこで急に我家へ帰った」とすることで、読んでいる側としては「家に帰るんかーい」みたいなツッコミを入れたくなる……ならない?二例目はこれ絶対真顔でボケてると思う。めちゃくちゃ狙って真顔でボケてると思う。笑うでしょこんなの。私、大真面目に面白いこと言われるのにメチャクチャ弱いんですよね。それもそんじょそこらの俳人ではなく、あの正岡子規が、「月を題にした句を詠まんとああでもないこうでもないと苦心して一句仕上がったはよいがよくよく見たら句の中に月がなかった」とやってるのが面白すぎるんですよ。子規の随筆は、こんな具合にウフッとなるポイントがあちこちにばら撒いてある。

 

正岡よき

「随筆の面白さ」とは少し違うが、子規が新聞記者として従軍した先の傲慢不遜な陸軍少佐が、己の側で手持ち無沙汰にしている曹長を尻目に”曹長にでもやらせればいい”ような雑用を手ずからやっている姿を見て、子規と他の記者たちがその少佐に曹長閣下」ってあだ名つけてるところもよかった。現代で言えば、店内で暇を持て余しているバイトくんを尻目に”バイトにでもやらせればいい”ような雑務に耽っている嫌われ者の店長に「バイト閣下」ってあだ名つけるようなものですね。ちなみに曹長は少佐の5つ下の階級です。でも閣下が付いてるのでプラマイゼロです。

 

正岡多岐

今回私が読んだのは岩波文庫から出ている正岡子規随筆選『飯待つ間』である。同じく子規の随筆集『病牀六尺』も読了。そちらは進行する病の中で死の直前まで書かれた随筆群であるから読んでいてなかなか辛いものもあるが、それでもこう、なんていうの、打ち上げられた後も夜空にこびりついて消えない花火みたいなユーモアの炸裂と強烈な余韻と独特の情緒があるんですよね。それに子規の随筆は非常に広い分野に及んでいて、俳句関係は勿論落語から食レポから教育論まで、ページをめくっていて全然飽きない。なんでも書けちゃう人です。すごい。みんなも読もう。

 

 

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