目の上のたんこぶ、目の下のクマについての覚書|まづ己が目より梁木(うつばり)をとり除け、さらば明かに見えてたんこぶとクマを取りのぞき得ん
(実際は首が痛いのでかしげて)ないです
帰宅して、顔を洗って、鏡を見て、やたら目の下が黒いなと思って、さっき顔を洗った時に落としきれなかった化粧かなと思って、濡らしたタオルでごしごししたけど落ちなくて、首をかしげて10秒くらい考えたのちに、ああ、これはクマかと合点した。なるほどね。目の下をごしごしすると色素沈着するからみんなは真似しないでね。大理石のコースターに付いた黒ずみをスポンジでごしごしするんだけどぜんぜん落ちなくて、やがて「ああ、これは石の柄か」と気づいたときのアレみたいな感じですね。天然素材あるある、汚れかと思ったら柄だった。持って生まれた自分の柄を「汚れ」と看做されてごしごしされることほど、石にとっての屈辱もないでしょうに。
クマだクマー
私は小さい頃から目の周りの皮膚色があまりよろしくなかったので、目の下が黒く染まっていようがわりと今更という感じで、あんまり気にならない。小学4年生か5年生くらいのときに、目の下が紫色だなあ、なんかやだなあ、と思った記憶があるが、芋くさい田舎の小学生にその紫色をどうこう出来るわけもなく、それきりである。ファッション誌の美容コーナーにはクマを治す方法やクマを隠す方法が毎号のように掲載されているが、それなら10歳そこら(下手するともっと前から)からずっと目の下が紫色の自分は一体なんなんだ。しかし考えようによっては、こうじゃ。世間の人々が消さねば隠さねばと躍起になっているものと、10歳そこらからずっと一緒に暮らしていて、それでいて屁とも思っていないのは、案外得なんじゃないかって。「自分はクマと無縁な体質で得したなあ」と「自分はクマがあっても気にならない性格で得したなあ」は、概念上は大きく異なるが、実際生活の上ではそんなに変わらんよ。「お前はこう」と言われて大真面目な顔で「はい、私はこうです」という返事をするからときどき損をするのじゃ。「お前はこう」と言われた時に、クソ生意気な顔で「はい、だからなんだよ」という返事をすることが出来れば、得なのじゃ。
私さんのことあんまり興味ないのごめんね
などと頭の中では合点承知之助でも、実際にはそう上手いことならないのが、悲しいところですね。「はい、だからなんだよ」と啖呵切ってやりたいのは山々なのに、今の自分には、「はい、私はこうです」と強かに認めてやるくらいしかできないんだって。日頃は自分に無関心で、自分のことは「私~~~???私がナニ???私がどうかした???私が私だからそれがなんなんだよ???」くらいにしか思ってないのに、都合の悪い時だけ自分に無関心であることが出来ず、情けない自分を承認することがやたら上手で、情けない自分を承認することにより結果的には自分の否定がやたら上手なのは、一体なんなんですかね。
クマが酷いので人生お休みします
都合の悪い時に都合よく出てくる負の自己承認とそれに連なる自己否定と自己への関心、その他もろもろの余計なものどもは、一体なんなんですかね。ぞれに比べて自己無関心のなんと場をわきまえていることか。あいつは私の日頃の中にいて、その存在の仕方はすこぶる正しい。日頃から自分に関心ありまくりだったら、そりゃもうしんどかったと思う。例えば、自分の目の下が黒々していることについて並々ならぬ関心を寄せて、ああしたり、こうしたり、思いつく限りの手を打って、それでもどうにもならないものだから、目の下が黒々しているというホンマしょーもない理由で、ある日突然失踪してしまうかもしれない。
今日の首
バスが揺れるたびに痛くておほーって感じ