やすみた~い覚書|高級な恒久の公休についての考究
イエス!(イエスだけに)
また言いたまふ『安息日は人のために設けられて、人は安息日のために設けられず。然れば人の子は安息日にも主たるなり』。
マルコ伝福音書2章27節より
神の子に感謝
人間の虚しき特権
多分ここが現代人にとっていちばん救いになると思います。公休日は労働者のために設けられて、労働者は公休日のために設けられず。然れば労働者は公休日にも主たるなり。なるほど我々の公休日は我々のためにあるのであって、我々が公休日のためにあるのではない。世の中がどこからともなく沸いた「公休日」という概念のノルマを消化するために、渋々労働者をそこに充てているわけではない。「公休日」という概念のノルマが消化できさえすれば、犬や猫やその他もろもろの生き物にそれを充てていいというわけではない。今年の公休日は日頃頑張っているお馬さんたちに与えようと思うので、今年は人間の公休日はありませんということにはならない。公休日は人間の、労働者のものだ。
R-18G(労働は子供には刺激が強すぎて教育に悪いので)
私は給料日を除けば概ね公休日のために生きているけれど、公休日は死んでいるも同然の生活をしているので、ざっくり言って死ぬ日のために生きていることになる。それって人生そのものじゃないですか。死んでいるも同然の生活をしても許される公休日、その日のために生きて、公休日には宣言通り死んでおいて、翌日にはまた次の公休日のために生きる。「生きる」「死ぬ」じゃあんまりハード過ぎるというのなら、「がんばる」「がんばらない」に置き換えてもよい。これなら安心してお子さんにも見せられますね。がんばらない日のためにがんばって、やくそくどおりがんばらない日にはがんばらなくて、がんばらない日が終わったらまた次のがんばらない日のためにがんばる。これなら小さい子にも理解できるでしょう。そう理解が……いや……あの……やっぱり理解しなくていいです。まだ理解しなくていいんです。理解できてもらっちゃあ困ります。まだ、まだ。まだ子供には早いです。早すぎます。だめです。もう少し大人になってから理解してください。公休日はコウノトリさんが運んできてくれるんです。大人が汗水垂らしてあくせく働いた末に獲得しているわけじゃないんです。
△寝るのに忙しくて遊んでる暇がない ◎寝るのに忙しくて寝ている暇がない
公休日は遊ぶためにあると思っている人と、休むためにあると思っている人と、死んでおくためにあると思っている私。どうして差がついたのか。慢心、環境の違い。そう、まさにその通り!慢心、環境の違い!欲を言えばそれに性質の違いも付け足しておいて頂きたいものですが。私もまさか公休日にただただ死んでおくことしかできない大人になるとは思わなんだ。子供の頃を思い返すと、私の親はなんだかんだで遊ぶのと休むのと半々くらいでうまいことやっていたと思う。週末はだいたい私をショッピングモールに連れて行ったし、外食もした。それ以外の時間は昼寝をしたりだらしない格好でドラマを見たりしていた。あの当時はそれが大人の当たり前なのだと思っていたが、自分が実際大人になってみると、ぜんぜん当たり前じゃなかったな。今の私が公休日にショッピングモールへ買い物に行こうと思ったら、多分半年前くらいから計画を練り練りしておかないと絶対実現までこぎ着けない。昼寝に関しては、なんかこう、「昼寝する時間があったら寝たい」って思っている。休むための昼寝と、死んでおくための臥床は、まるきり別物。
休みながら休みたいって言ってる 私には 真 の休みが分からない
我々は一体何のために働くのか、我々は一体何のために休むのか、我々は一体なんのために労働日を得るのか、我々は一体何のために公休日を得るのか。休むために働くのか、働くために休むのか。労働が終わった先に休みがあるのか、休みが終わった先に労働があるのか。我々の安息日とは一体何なのか。そんなものが人間にあるのか。人間とは一体何なのか。我々はいずこへ行くのか。我々はいずこにて休むのか……