珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

「人類」という器についての覚書|みんな(クソデカ主語)もクソデカ主語のこと好きでしょ

非実在人類

何となればこれらの人はややもすれば人類だとか、個人だとかいうが、しかし私は未だこれらの人からその人類というもの個人というものの明らかな説明を聞いたことがない。境野氏は「宗教の権威」の中で、人間には「国民としての人間」「人間としての人間」「人間以上としての人間」の三方面があるというておるが、そのいわゆる三方面の関係はどうなるのか、少しも説明しておらない。従ってその各々の性質は不明である。しかしこれは説明の出来ぬわけである。何となればこれらの人の、国民とか、人類とかいうておるのは、抽象的な非実在のものであるからである。人間は、どこまで行っても、またどこから見ても、あくまでただの人間である。国民としての人間だの、人間としての人間だの、人間以上としての人間だのというものは宇宙のどこを探したってありはしない。

石橋湛山「国家と宗教及び文芸」(松尾尊兊編『石橋湛山評論集』1984,岩波書店)

ごめん……

 

これはマックにいた抽象的な非実在女子高生の会話なんですけど

このブログで「人類」と書いた数、ここまでの文章含めて165回この記事を除けば161回。ふーん。そんなものなのか。500回くらいは使っていると思っていた。一応言っておくとこの165回というのは、エクスポートした全記事のテキストデータにctrl+Fキーで「人類」と検索かけて出てきた数字です。いちいち数えたわけじゃないよ。想像していたより随分少なくてなんだか物足りない気がしたけれど、よくよく考えたら「あっそうそうこないだ人類がさ~」といった風に現実の日常会話に「人類」という単語が出てくることはほぼほぼ無いことを考えれば、165回というのは破格の回数である。

 

ポイ捨て常連者がひとつゴミを拾ってもさしたる名誉回復にはならないのにゴミ拾い常連者がひとつゴミをポイ捨てするとそれだけで名誉失墜するの悲しいけどこれもまた「人類」なのよね

一体なぜ私が「人類」などというクソデカダイマックスな主語を好んで用いるかというと、人間の個体と個体を区別することにあまり意味を見いだせなくなったからである。例えばここに2人の人間がいて、甲氏はゴミ拾いをよくすることで有名、乙氏はポイ捨てをよくすることで有名だとしよう。私はこの情報以外に甲氏乙氏については何ひとつ知らないとしよう。この時点で私は「ゴミ拾いをよくする甲氏」「ポイ捨てをよくする乙氏」という区別をしているわけである。しかしある日、たまたま甲氏がポイ捨てをしている場面を見てしまい、甲氏にいたく失望したとしよう。そうなると、私の中ではもう「ポイ捨てをする甲氏乙氏」といった風に両者が一緒くたになってしまい、甲氏乙氏といちいち区別する必要もなくなるから、「ポイ捨てをする人間共」「ポイ捨てをする人類」とすればそれで間に合うし、なんなら「人類」とするだけでも事足りるのである。よくわかる解説でしたね。ここでたった2人の人間がいきなり「人類」になるのはあまりにも飛躍が過ぎると思われるかもしれないが、安心してほしい。同じことの繰り返しになるから説明を省いただけで、「人類」の中には当然丙氏もいれば丁氏もいる。これまでの人生で見てきた数え切れない程の人間がその中にいる。その中には甲乙丙丁……n(?)人が含まれているのである。すなわち私が用いる「人類」という言葉は、人間に対して抱いた失望を容れておく器という程度の意味に過ぎないわけです。

 

ザ・エンドってね

私が「人類」という言葉を使うときは、このエラソーな感じからして、実際エラソーな気分になっているので、私自身の悪いところ全てを棚に上げることが許される唯一の場面です。無理矢理にでもエラソーな気分にしておかないと「人類」なんて大層な言葉で人々を呼べないですよ。私から「人類」呼ばわりされてしまった一個の人間はまことお気の毒様だ。彼ないし彼女は恐らくこの先一生「人類」という器の中から出してもらうことはできないのだから。人間の嫌なところを目にするたびに、私の中の「人類」がどんどん数を増していく。ああ、あの人も「人類」、この人も「人類」、私も歩けば「人類」に当たる……。そんな具合でこの世の全ての人間を「人類」の中に容れ終わったら、最後はその中に私自身を容れて、こうして器の外には誰もいなくなって、ハッピーエンド。

 

やってらんないときに飲むコーヒーは格別だぜ

まともそうに見える人間が実は全然まともじゃなかったみたいなことが普段あまりにも多すぎて、「まともな人間とは一体なんぞや?」ということについて毎日のように考えている。あ、ここでも私自身のことは全て棚に上げますよ。そうしておかないと思索が進みませんから止むを得ない措置です。「あなたの言う『まともな人間』ってのは要するにあなたにとって都合がよくあなたにとって親しみやすくあなたにとって共感しやすくあなたにとって不愉快ではない人間のことですよね」とでも言われたらもうそこで思索が終わってしまいます。イヤ、実際その通りで、返す言葉もないんですけど。でも、私はその正論を振り切って、至って大真面目に、「まともな人間とは一体なんぞや?」と問い続ける必要があるんです。これは非常に危険な問いです。そもそも「まとも」という概念そのものが非常に危険であることは承知の上です。でも考えないとやってらんないんだよなあ。本当に。やってらんないよ。

 

 

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