某女性週刊誌から考える人間の丸焦げについての覚書|あーん
パン派の人間です
an・an2289号の表紙に書かれたコピー。「人はなぜ人に焦がれるのか?」。しらない。なぜって言われても。このコピーをTSUTAYAで最初に見たときは、「へぇ~……ふ~ん……ほぉ~ん……」みたいな気分になりました。なんかこう、その場で体温全部持ってかれた感じですよね。ほんのちょっとだけ後ずさりしてしまいました。例えるなら、そうだな、「人はなぜ米に焦がれるのか?」というコピーを目撃してしまったパン派の人間みたいな気分になりました。多くの人間が米に焦がれていることは大いに認めるし、そこに異論は全くないのだが、あたかも万人が米に焦がれているような言い方をされるとちょっと……みたいな。私の解釈がひねくれてるだけかもしれないけど。そもそも人は人に焦がれるんですね。初めて知りました。
リライトしてえええええええ
とはいえ、人に焦がれない人とか、米に焦がれない人に配慮して、「なぜ人に焦がれる人がいるのか?」「なぜ米に焦がれる人がいるのか?」としたが最後、コピーの意義が全く失われてしまう。これじゃあまりにも弱気すぎる。こんな弱気なコピーなら最初から掲げない方がマシってくらい情けないコピーである。あくまで「人は人に焦がれる」「人は米に焦がれる」という大胆な前提で語りかけるからこそ、コピーは訴求力を発揮するのだ。だからあのan・anの表紙のコピーはコピーとして実に大正解ですね!知らんけど。知らんけれども、私は現にこうしてあのコピーに言及する記事を書いている。あの13文字の中には、人に丸々1本のブログ記事を書かせるほどの力が込められている。私はキャッチコピー論について語りたいわけではないので、この話はここで終いにしよう。そういう話は糸井重里にでも頼んでください。
現代国語教育の敗北
そういうわけで、「人に焦がれる人もいる」ではなくして「人は人に焦がれる」というあのまことに大胆な前提をこの場に拝借しようと思う。人は人に焦がれる、いいね?アッハイ。そもそも「人に焦がれる」とはどういう状態を指すのか。「人を好きになる」とか「人を愛する」とはまた違うのか。あ、ここらで補足しておきますと、私はan・an2289号の中身を一切読んでいない。読んだら灰になりそうだから読まない。本当にたまたまTSUTAYAで表紙を見かけて、ぐえーっとなって、それで終わりである。まあ何はともあれ、まずは国語辞典先生に聞いてみよう。
こが・れる【焦がれる】 の解説[動ラ下一][文]こが・る[ラ下二]1 いちずに、激しく恋い慕う。切ないまでに思いを寄せる。
「長年―・れた相手と結婚する」「故郷に―・れる」
2 そうなりたいと強く望む。
「女優に―・れる」
3 動詞の連用形に付いて、望むことが早く実現しないかと居ても立ってもいられないほどである意を表す。
「思い―・れる」「恋い―・れる」「待ち―・れる」
4 焼けて焦げる。
「焼け通りて、うとましげに―・れたる匂ひなども」〈源・真木柱〉
5 香を強くたきしめる。
「取る手もくゆるばかりに―・れたる紅葉重 (もみぢがさね) の薄様 (うすやう) に」〈太平記・一五〉
6 日光にさらされて変色する。また、日に焼けたように赤くなる。
「滝の上の御船の山のもみぢ葉は―・るるほどになりにけるかな」〈玉葉・秋下〉
ふんふん。なるほどね。よく理解できました。つまり人はなぜ人をこんがり焼き焦がすのかってことですよね。旨みが凝縮されるからです。
このブログは基本的に全部妄想だしこれからもきっとそう
人が人に焦がれると一口に言っても、そういう場合は相手の全て・相手そのものに焦がれるというよりむしろ、相手のどこかに焦がれると言った方が正しいですよね。いくら当人が私は相手のどこかではなく全てに焦がれているんだとそれらしいことを宣っても、多分、それ、無理ですよ。人そのものに焦がれるのはなかなか難しいことです。人を人そのものとして無条件に愛するのはなかなか骨が折れることです。言葉の上ではカンタンですけど。そもそも人の全てとは、一体どこからどこまでなのでしょう?一歩間違えれば、それは愛ではなく、崇拝とか、盲信になってしまいます。全部愛は狂気です。人にはまだ早いと思います。一部愛くらいがちょうどいいのです。一部愛というとなんだか誤解を受けそうですけど、いい表現が思いつかないのでこのままにしておきます。お互いに、「お前のこことここは好きだけどここは正直気に食わないよ」「奇遇だね、アタシもだよ」とハッキリ言えるくらいの関係が、いちばんいいんじゃないですかね。まあ恋人いたことないので全部妄想なんですけど。