優しさのマニュアルについての覚書|当社の正式なトラブル対応マニュアルに客が店内で漏らした場合の対応方法が明記されてるのなんなんだって思うけど実際店内で漏らす客が定期的に現れるから仕方ない
「己には感情がない」と強く言い聞かせることで労働を楽にするライフハック
コレめちゃくちゃ便利なんだけど代わりに大切なものを失っている気がする
ケツから子供産んでる感じだよね(クソ客だけに)
私が「あ、こいつクソ」と思うからクソ客なる忌々しい生き物がこの世に爆誕してしまうのであって、私が「あ、こいつクソ」とさえ思わなければ、クソ客なる忌々しい生き物はそもそも生じないのである。従って、「あ、」くらいのところで打ち止めにしておけば、クソ客の種子は発芽しないし、クソ客の卵は孵化しない。発芽しなかった種子や孵化しなかった卵はそのまま放置しておくと厄介なので炒って酒のつまみにしたり人にぶつけて遊んだりしましょう。ところで私に「あ、こいつクソ」と思わせる元凶は一何か?そう、感情ですね。私を怒らせる出来事が存在するから私が怒るのではなく、私が怒るから私を怒らせる出来事が存在するのである。だから私が怒りさえしなければ、私を怒らせる出来事はこの世のどこにも存在しないのだ。ふーん。案外簡単じゃん。
なんでもいいです
ふと思ったんですけど、「優しさ」って感情なんでしょうか。この問いについては色々な方面から考えることができる。現代文の時間に国語辞典を引きながら考えることもできるし、数学の時間に対偶証明法や背理法を用いながら考えることもできるし、生物の時間に脳科学や神経科学のテキストを繰りながら考えることもできるし、道徳の時間に机をくっつけて班ごとに話し合いながら考えることもできるし、家庭科の時間に人間らしく生きる練習をしながら考えることもできるし、倫理の時間に早弁しながら考えることもできる。要は、いつでもアリ、どこでもアリ、誰でもアリ、何でもアリ、どのようにしてもアリなのである。そもそも厳密にやろうと思ったら、まず「感情」の定義を判明にするところから始めなければならない。やだよそんなの。
今年度からこのクラスを受け持ちつ受け持たれつすることになりました
無難に考えるなら、「優しさ」は感情を取りまとめるものというか、保護者というか、大家というか、親分というか、あくまで感情たちの担任の先生であって、別に感情の一種ではないと思う。ほらだいいち、「優しさ」は性質だし。例えばここにあるクラスがあって、そのクラスの担任の先生は間違いなくクラスに深く関わっている人物であるし、担任の先生がいなければクラスがクラスとして成立しないまであるが、じゃあ担任の先生はこのクラスの一員であるかと問われると、厳密にはそうではなく、しかし広義ではそうとも言える、みたいな。生徒がいるから先生が必要になるとも言えるし、先生がいて初めて生徒は生徒でいることができるとも言える、みたいな。
教えたい人が先か学びたい人が先か
「優しさ」から怒りが発生することはあっても、怒りから「優しさ」が発生することはなかなかないと思う。よしんばあったとしても、それは結局「優しさ」から発生した怒りから「優しさ」が再発生しているだけだと思う。先生に学んだ生徒から先生が再発生するような具合に。じゃあ人の「優しさ」ってどっから出てくるんだ?最初の先生はどっから出てくるんだ?
†感情がない†
冒頭の話に戻ろう。私が自分に向かって「己には感情がない」と言い聞かせるなどという大層頭の悪い方法で自分を宥めすかしているとき、それで本当に感情がなくなったかと言われたら天地がひっくり返ってもそんなことはないのだが、まあ一応感情を失うことに成功していることにしておこう。で、感情がなくても人に優しくすることはできる。「優しさ」なんて所詮は振る舞いのひとつでしかないので、心に優しさがなくても人に優しくすることはできる。優しい振る舞いのマニュアルに従って優しく振る舞えばよいのだ。喜びのマニュアルに従って喜ぶとか、怒りのマニュアルに従って怒るというのはなかなか難しいが、優しさのマニュアルに従うこと、それはなんだ、至極簡単なことだったのだ。