珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

赤の他人の遠足を思い出にする覚書|あれはたぶんきっと君たちにとってはなんでもない出来事で それでも私にとっては素晴らしい遠足の思い出

現にこれ書きながら鼻すすってるくらいには心に響く光景だった彼らの青春の眩しさも含めて

横断歩道を中学生の集団が走っていた。集団というのは、7人とか8人ではなくて、ざっと70人とか80人である。全員体育服を着て、引率の先生に急かされながらじゃんじゃか渡っている。この時期だから、遠足だろうか。中学生に遠足ってあるのか?まあとにかく、ものすごい数の中学生たちが猛ダッシュで横断歩道を渡っていたのである。間もなく全員が渡り終えるというところで、歩行者信号が点滅を始めた。急げや急げ。このままダッシュすれば全員が渡りきれるかもしれない。がんばれがんばれ。あと数人だ。やがて信号は赤になった。黄色い横断旗を持った中年くらいの男性の先生が動いた。その先生は、残すところたった3人となった生徒らを、勢いのままに――――――渡らせなかった。止めた。横断旗と、自らの体で。たった3人。渡りきった大勢の生徒が、残された3人の生徒を見て笑っている。残された3人の生徒も、渡りきった大勢の生徒を見て笑っている。多くの人はこう思うかもしれない。「たった3人、そのまま勢いで渡らせたらよかったのに。車の方だって、いくら自分側の信号が青とはいえ、まさか中学生が横断中に発進することもあるまい」。でも、あの先生はそれをしなかった。止めた。なぜって、信号が赤だから。自らの生徒を、決して、赤信号で渡らせなかった。その光景をバスの中から眺めていて、なんだか涙が出そうになった。

 

いくら心に詫びても声に出さなきゃ意味がないんですよ

私がもしあの先生だったら、ウーン、渡らせてたかもしれないなあ。ああごめんなさい、もう歩行者信号が赤になってしまいました、でもあと3人、たった3人なのですから、どうか見逃して、渡らせてやってくださいまし。そんなことを心に思いながら、勢いで渡らせてたと思う。あの先生は、信号が赤になった瞬間、3人の前に飛び出して、自らは道路にはみ出さんばかりのギリギリの位置で、道路に背を向けて、3人の生徒を何かから守るように勇ましく立って、それで、決して、赤信号を渡らせなかった。いい先生だなあ。

 

遠足は最後尾がいちばん楽しいって古事記にも書いてある

あの先生のお陰で、最後の3人は「赤信号を渡った生徒」にはならなかったわけだ。だって、不公平だもんな。中学生の列が何の順番で並んでいたのか知る由もないが、たまたま列の最初にいたってだけで「青信号を渡った生徒」になりたまたま列の最後にいたってだけで「赤信号を渡った生徒」になるのは。不公平だもんな。私が乗っていたバスはその後発進してしまったが、あの3人は間もなく、「青信号を渡った生徒」になったことだろう。それは誇っていいと思う。自分がもっと早く走っていたらとか、渡りきった数十人を待たせてしまって申し訳ないとか、そんなこと一切考えなくていいと思う。素晴らしい先生と一緒に悠々青信号を渡れたことを、誇りとしていいと思う。

 

いまさらどうやったって自分の生まれを遅らせることはできないしアイツの流行を早めることもできないんだよ

人間にとっての「たまたまαというだけでAになる」問題は、論じたってどうしようもない、終わりの見えない、答えの見えない問題のひとつである。「たまたまα」ってのは、要するに出自だったり性質だったり、「たまたま田舎に生まれた」「たまたま都会に生まれた」「たまたま金持ちに生まれた」「たまたま貧乏に生まれた」「たまたま国語が得意なように生まれた」「たまたま数学が得意なように生まれた」みたいな。人の出自や性質を「たまたま」そうなっただけと見なすことには賛否両論あるだろうけど。「たまたま」なら悔しくないし、「たまたま」だからこそ悔しいってこともある。「Aになる」ってのは、Aになるってことです。例えば、「たまたま田舎に生まれたというだけで不便を強いられる」「たまたま地方に生まれたというだけで就職活動の交通費がバカにならない」など。後者については、私が大学生の頃はかなり問題だったけど、今はこんなご時世ですから、それなりにオンラインでやってますでしょ。ウーン。交通費宿泊費で下手するとウン十万払って就活してた彼らは一体なんだったのか。これを上の構文に当てはめると、「たまたまコロナ前に地方の就活生だったというだけで就活のために高額の交通費を払うことになった」。ほら、こんなこと、考えたってどうしようもないでしょ。

 

 

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