珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

四月なので新しいことを始めようとする覚書|今日はアレを書くのにもってこいの日

ラッキーアイテム:遺書

さーて4月なのでなんか新しいことを始めたい気分だな。新しくやることが欲しい気分だな。4月はなんか新しいことを始めるのにもってこいの月だ。ウーン。遺書でも書いてみようかな?ああ待って。待ってください。通報しないで。そうじゃないんです。遺書つったらある程度年を取ってぼちぼち自分の臨終を考える頃合になってから、もしくは自分の命の終わりが見えてきた頃合になってから覚悟を決めて書くものと思われてるみたいですけど、私に言わせてもらえば、人間いつポックリ死ぬか分からないので、別にいつ書いてもいいと思うんですよね。ただ、なんとなく縁起でもない気がするからそうしてないだけで。もしも正月に遺書を書くことは縁起がいいとでもされていたらみんな書くでしょ。もしも毎年遺書を書いて役所に提出することが義務だったらみんな書くでしょ。もしも「遺書を書くと運気がアップしてお肌ツルツルナイスバディになって仕事も上手くいくし宝くじにも当たるし失せ物は見つかるし一生モテモテになれる!みんなも遺書を書いて幸せを手に入れよう!」って言われたらみんな書くでしょ。書くのかな?

 

誰も『死』そのものを見たことはないという点では真理或いは神に似ている

遺書を書いたからには近日中に死ななきゃいけないなんて決まりはどこにもないんですよ。遺書を書いてから50年生きてもいいし100年生きてもいいし1000年生きてもいいし10000年生きてもいいんですよ。逆に、遺書を書いている人を見て「あっこいつ近いうちに死ぬんやな……」って勝手に決め付ける方が却って失礼な気がしてきました。遺書や遺書を書いている人から死の香りが漂ってるんじゃなくて、我々が勝手に死の香りを見ているだけなんですよ。香りは見えませんから、つまり幻覚(幻嗅?)ってことです。「うるせー!私は10代のうちに遺書を書いといてそれからギネスの長寿世界記録に載るんじゃ!そこになんの因果関係もないんじゃ!」って考える人がいても特段おかしくないわけです。或いは本人が「これはただのお手紙だよ」って言い張るなら、それはただのお手紙なんです。

 

だから人は形のないものを残したがるんですね

遺書というより遺言状っぽくなりますけど、自分の持ち物を整理するのにもいいんじゃないですかね。今自分はこれこれこういうものをこれこれこういうだけ持っているってのを把握しておくのにいいと思う。それらをリストに箇条書きでまとめたのちに、もしこのあとコンビニに行く途中で空が落ちてきてウッカリ死んだ場合などを想定して、この持ち物はどうしようかなってことを余白に書き足しておけば、もうそれでいいと思います。当然、自分の持ち物が多い人とかモノ以外にあれこれ考えなきゃいけないことがある人はそう簡単にはいかないでしょうけど。私の持ち物の中に金で買えないものはないし、量産品でないものはないし、形のないものもないので、「本はブックオフに売るかどっかに寄贈してください」「それ以外のものはゴミ収集の日に出してください」とさえ書いておけば事足りるし、その程度のことならわざわざ書き残さずとも多分誰かがやってくれるんだよなあ。

 

卒業文集も卒業アルバムも卒業証書も何ひとつ手元に残ってない あの世へ赴いた際にこの世の卒業証書を貰えたら今度こそ大切に保管しておこう

ええと、ところで、遺書ってどんな感じで書けばいいのかな?読んだことないから分からないや。書き出しは……「あなたが今これを読んでいるということは、私はもうこの世にいないということでしょう」。いやいやいやいや流石にこれはダメでしょ。こんな書き出しが許されるのはそれこそ「いつか」ではなく「すぐに」死にたい人か、これから最後の戦いに赴く人くらいですよ。「子や孫に恵まれて私は幸せでした」。子や孫に恵まれる予定がないからだめだな。これでもし明日死んだら遺書じゃなくて怪文書になってしまう。この世で好きだったこととか楽しかったこと、あの世に行ったらやりたいこととか書いておくか?卒業文集かな?あながち間違いでもなさそうだな。遺書の束を人生の卒業文集と考えれば、何もおかしいことはない。実質卒業文集だ。過去の思い出と、未来への展望を書くという点では同じなのだ。ええと、ところで、卒業文集ってどんな感じで書けばいいのかな?

 

化けて出そう

早々に遺書を書く事に問題があるとすれば、やはりまだ遺書は死を意識してから書くものという考えが一般的であるが故に、遺書を書いたからには近日中に死ななきゃいけないような雰囲気が世をうっすらと覆っているが故に、ややもすればおおごとになりやすいということだ。例えばほら、もしも私が宇宙人に1週間くらい攫われているあいだに誰かが遺書を見つけ出してしまったらおおごとだ。確実に近所の大きな川とか深い森に搜索が入りますね。帰ってきてから「すみません宇宙人に攫われてました」と釈明しても、帰還を喜ばれるどころか却って多方面から説教されそうですね。説教が辛すぎるあまり話の途中で身投げするかもしれません。さて、そうなればあのおおごとを巻き起こした文書はまさに彼らの考えるところの「遺書」になるわけだ。彼らもきっと満足するだろう。そうなれば私も満足だ。ただ文書の最後に「みなさんの説教が辛すぎるので死にます、さようなら」と書き込めなかったことだけを、たったひとつの心残りとして。