珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

公園や ああ公園や 公園や な覚書|つまらぬ我の息も詰まりぬ

「公園で息抜き🍵」について一言

息抜ける……?公園で……

 

公共初心者のみんな~~~~!!!!!

私はここで一言申し上げたい。公共初心者は公園で息抜けない。何故なら公園は公共にどっぷり属するものだからである。”公”園っていうくらいだし。「公園で息抜き」とは「公共で息抜き」とほぼ同義であって、「公の場で息抜き」ってことなんですよ。ほらね、公共初心者には無理なの。公の場で息抜き。できる?私には無理だね。私は、私の場でなければ息抜きなんてできない。公園で息を抜くためには、自ら進んで公共に属し、公共の一部とならねばならない。自らが公園そのものにならねばならない。よくよく考えたら、いや考えなくても分かることだが、意識して公共に属し、意識して公共の一部となることは案外容易ならざることである。みな当然のごとく公共に生きているつもりでいて、しかし公共のことを真に理解している人間が果たしてどれほどいるだろうか。公共ってナニ?公共ってドコ?ココ?

 

高度に社会的ではない人間の所感です

公園で息を抜ける人間は、まさに公共で生きるに適した、高度に社会的な人間だと思う。公共に身を任せる方法を知っている。公と私をいい塩梅に調和させることを知っている。身の回りの公共をあたかも我が物のように扱いながら、それでいて身の回りの公共が決して我が物にあらざることを知っている。公園で言えば、公園をあたかも我が家のように気安く扱いながら、それでいて公園が決して我が家でないという分別を知っている、ということだ。我々はベンチに我が物顔で座ってもよいし、ブランコを我が物顔で漕いでもよいし、砂場を我が物顔で掘りたくってもよい。でも、それらは決して我が物ではない。一定の配慮はしなければならない。我が家にあるようでいて我が家にあらざるような配慮をしつつそれでいて くつろぐ・・・・ って、あまりにもレベルが高すぎませんかね。それなら最初から、完全に我が物であると分かりきっている我が家において、配慮しないことに一切配慮せずフニャフニャに過ごすか、完全に我が物でないと分かりきっている他が家において、配慮することに一切配慮せずカチコチに過ごす方がよっぽどカンタンだと思うのだが。私はね、「公園のベンチは自由に座っていいんですよ」と言われたら却って座れないし、「公園のブランコは自由に漕いでいいんですよ」と言われたら却って漕げないし、「公園の砂場は自由に掘っていいんですよ」と言われたら却って掘れない、そういう人間なのだ。公における私の自由の塩梅は、むつかしい。

 

将来の夢は山奥にいおり (インターネット回線付き)を結んでひっそり暮らすことですって言う

そもそも公共ってのは、大規模シェアハウスみたいなものだから。ハウスだから、そこにみんないるよね。そこにみんないる中でくつろぐ・・・・ってのが、最大級の難所だよね。そこにいるみんなを意識していては、くつろげない。かといってそこにいるみんなを全く意識しないで過ごすことは、公共のやり方に反する。オイオイオイ。私は一体どうすればいいんだよ。……イヤ違うな、質問の仕方が違う。私は一体これまでどのようにしてきたんだよ。私だって今日ここまで生きてきたからには、公共で生きてるはずなんだよ。でもやり方がわかんねえんだよ。答えてくれよ。私は公共でどうやって生きてきたってんだ。なあ私。私には分かんねえよ。

 

なんだか変な空気になってきたのでせめて好きな公園ランキングでこの場を和やかにして終わろう

3位 はとぽっぽがいる公園

2位 ねこがいる公園

1位 人間がいない公園

 

今週のお題「好きな公園」ってナニ?