珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

哲学の中の括弧の中の哲学についての覚書|目は4つもない、ここ試験に出ます

なるほど(なるほど)

人々は人間愛から時折、或る任意な人を抱擁する(すべての人を抱擁することはできないから)。しかし、このことこそその任意な人に洩らしてはならないのだ……

ニーチェ(1970)『善悪の彼岸』(木場深定訳) 岩波書店

 

このコピペ思い出した

「あぁ……俺…疲れてるんだなぁ……」って思った時

11 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。:2008/01/14(月) 22:48:30.06 id:uBlLCIApO
眼鏡したままサングラスしようとした時(目は4つもない)

 

ニーチェに謝ってどうぞ

人々は 或る任意な・・・・・ 人を抱擁する。何故かというに、 すべての・・・・ 人を抱擁することはできないからである。ハハァ、なるほどね。めちゃくちゃ理解できたわ。0.0001秒で理解できたわ。「言葉」ではなく「心」で理解できたわ。素人からすればついつい「その補足いる?」と言ってしまいたくなることだろう。しかしそれを口に出してしまったが最後、周囲の人間から返ってくる言葉はただひとつである。「だからあなたは素人なんですよ(玄人ではないので)」。そう言われて嘲笑されるだろう。だから、黙っておく。まあニーチェの文章はとにもかくにも独特なので、今更こんな言い回しをされたところで、その他のより難解な文章群に埋もれてしまい、特別気にかけるようなことでもなかっただろう。にも関わらず私がこの箇所を引用したのは、ひとえに「(目は4つもない)」という例のフレーズを強く連想したからであって、そういう意味では2chのコピペが主、ニーチェ箴言が従というわけだ。

 

ニーチェを読むとついつい文章でニーチェ節を使いたくなる――――この段落の文末のように!

どうしてニーチェがここだけわざわざ「(すべての人を抱擁することはできないから)」という丁寧な補足を入れたのか、その真意は分からない。あたかもそれ以外の部分ならわりと分かるような書き方になりましたがそれ以外の部分もぜんぜん分からないので大丈夫です。ウーン。こくごの時間ですねえ。「所詮人間はすべての人を抱擁することはできない、その人の内面がいくら人間愛に溢れていようとも人間に出来ることは或る任意な人を特別扱いするくらいしかない」というニュアンスを強調するため、とかでしょうか。逆に言えばすべての人を抱擁出来るのは人間ではないナニカ、すぐに思いつくのは神だけど、神は死んだので、生きている人間の方が却って出来ることが多いんじゃないですかね。死んだから1すら抱擁出来ない神と、生きているから1を抱擁出来る人間。そもそもこの「抱擁」ってのは、抱擁という行為そのものではなく、なんかの比喩なのかしら?愛を示す行為という以上の、何かもっと深遠な喩え……

 

言い訳と保身をやめればいいのでは?

私はバイトの書き置きとか引き継ぎメモとかで括弧を多用してしまうんだけど、どうすれば括弧で補足しなくてもいい感じに分かりやすく誤解なく適度に言い訳と保身もしつつうまい具合に内容を伝えられるのかしら?それこそ「(目は4つもない)」みたいなしょーもない補足をついつい入れてしまうのだ。補足がベタベタついてるメモってめっちゃくどいんですよね。分かってるんだよ。分かってるけどなかなかやめられないんだよ。いっそ※印に数字振って文末に注釈入れるほうがスマートな気がしてきたぞ。論文かよ。

 

今日のまとめ

括弧の中には哲学がある(括弧の外にも哲学はある)