珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

投獄と釈放の間を反復横跳びする覚書|一連の反復運動が音速を超える頃には私自身がひとつの牢獄となるのだ

またその話ですか?

多分これまで何度かブログでも書いてきたと思うんでけど、私はどうもある程度決められたレールが無ければ堕落と虚無の荒野をどこまでも蛇行運転してしまうタイプの人間のようでして、一人暮らし始めてからずっとそんな感じだし、特に休日の過ごし方なんかまさにそうなんですが、労働でくたびれており余暇時間も明らかに少ないはずの平日の方がよっぽどやりたいことやるべきこと色々出来てるのヘンな話だなあとかまあそういうことを奇妙に感じたり感じなかったりするわけですね。

 

地獄の条件付け

私はほら、今でこそ週6労働やってるけど、当然いつまでもこれを続ける気は毛頭なくて、ある程度お金が貯まったら週5に減らすぞっていうそういう前提で今頑張ってるんですが、休みが週2に増えたところでただなんもしない日が週に1日増えてしまうだけなのではなかろうか?ということを真剣に考えては頭を抱えているわけです。労働前か労働後じゃないと本も読めないし掃除も出来ないし家具の組み立ても出来ない。「本を読むためには労働しなければならない」って、「読む本を買うためには労働して賃金を得なければならない」という風に考えればあながち間違ってるわけじゃないんですけど、私の場合文字通り「本を読むためには労働しなければならない」のであって、おぉーんそうじゃねえだろおぉーん……

 

まあいっか

おやつたべよ

 

おやつたべた

たべっ子どうぶつチョコバナナ味を食っていて閃いたのだが、私は「解放」と抱き合わせでなければ何かに取り組めない性分なのではなかろうか?「解放」、それもとびきりの苦行からの「解放」と……。上の話でいくならば、労働からの「解放」と抱き合わせでなければ本が読めない、といった風に。労働から「解放」されて初めて、「さあ本を読むぞ!」という気概が湧いてくるのであって、休日に家でだらだらしているときに「さあ本を読むぞ!」とはならないのである。なるほど。なるほどですね。ウンウン。なるほどなあ。自論ながら目からウロコがぽろぽろ落ちたね。腑には全く落ちないけどね。まあウロコは本来腹におさめるものではないので腑に落ちなくともよいのだ。三角コーナーに捨ててしまいなさいよ、そんなウロコ。

 

刑務官過労死不可避

何かから「解放」された瞬間の「解放感」と、休日にだらだらしている間の「開放感」とはまるきり別物であることを、改めて認識した。私を次の行為へと突き動かすものはあくまで「解放感」であり、決して「開放感」ではないことを改めて認識した。今日の思索はこれだけで十分だ。たった今牢獄から解放されてそのまま大草原にダイブした人と、かれこれ数時間空を眺めながら大草原に転がっている人とは、享受する喜びがまるで違うじゃない。私が何か、自分の意になる何かを行為しようと思ったら、常に牢獄から解放され続けなければならない。常に牢獄から解放され続けるには、常に牢獄へと放り込まれ続けねばならない。常に!私は次から次へと牢獄へ放り込まれ続け、次から次へと牢獄から解放され続けなければならない!んまーなんて忙しいんでしょ。刑務官の人が。